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【ドラマ10大奥】徳川家重の正室・増子女王(伏見宮皇女)とはどんな女性だった?

江戸時代
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NHKドラマ10「大奥」、皆さんも楽しんでいますか?筆者も毎週火曜日を楽しみにしている今日この頃です。

さて、江戸幕府の第9代将軍・徳川家重(演:三浦透子)。彼女は生来病弱で言語不明瞭に苦しみ、また排尿障害を患っていたため心無い者たちから「小便公方」などと呼ばれていました。

第9代将軍・徳川家重。顔面麻痺の影響か、ひょっとこのような顔に描かれている。伝 狩野英信筆

英邁と名高い徳川吉宗(演:冨永愛)のお世継ぎがどうしてこんな……しかし近年の研究により、父の才智を受け継ぐ政治能力も知られています。

そんな家重に寄り添った伴侶の一人が、正室の増子女王(ますこじょおう)。家重より1歳年長の姐さん女房ですが、果たして彼女はどのような生涯をたどったのでしょうか。

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佳人薄命を絵に描いたような生涯

『徳川諸家系譜』によると増子女王は正徳元年(1711年)10月19日、伏見宮邦永親王(ふしみのみや くにながしんのう)の四女として誕生しました。

宮号は比宮(なみのみや)、院号は證明院(しょうめいいん)。同じ読みで培子と表記されることもあります。

叔母に当たる理子女王(まさこじょおう)は吉宗の正室であり、そうしたご縁もあったのでしょう。21歳となった享保16年(1731年)12月15日に家重の元へ嫁ぎ、江戸城西御丸に住まい御簾中(ごれんじゅう)様と呼ばれました。

……○十五日   大納言殿御婚礼行はる。よて溜請。普第の衆。雁之間詰。奏者番。菊之間縁類詰父子。布衣以上両城に出資して賀し奉る。けふより   姫宮の御事を簾中の御方と称し奉るべきむね仰出さる。……

※『有徳院殿御実紀(徳川実紀)』巻卅四 享保十六年十二月「家重婚姻」

夫婦仲は円満だったようで、享保17年(1732年)には二人で墨田川へ遊覧に出かけています。

やがて子を授かった増子。しかし享保18年(1733年)9月に早産、せっかく生まれた子供はすぐに亡くなってしまいました。

……簾中の御かた御懐胎なりしが。にはかに御心地わづらはしくおはしますよし聞えければ。夕つけて西域にわたらせ給ひ。夜に入まで御薬のことゞも御みづから沙汰したふ。(日記。)○十二日   簾中御方きのふより例ならずなやましくわたり給ひしが。今朝にはかに御産ありしに。かたなりにておはしければ。御なやみいよいよ重らせ給ふにより。……

※『有徳院殿御実紀(徳川実紀)』巻卅八 享保十八年九月

我が子の死を悲しんでの故か、増子も産後の肥立ちが悪く、後を追うように10月3日薨去(こうきょ。貴人が亡くなる表現)。

……○三日   簾中の御方御なやみにより。今夜■猪の佳儀停廃せらる。しかるに御心地遂に怠らせたまはず。夕かけてはかなくならせ給ふ。御とし十九。……

※『有徳院殿御実紀(徳川実紀)』巻卅八 享保十八年十月「家重夫人證明院薨」

『徳川実紀』では19歳(満18歳)ということなので、この場合の生年は正徳5年(1715年)。家重よりも年下となります。

ほどなく寛永寺(東京都台東区)に葬られた増子は證明院智岸真恵大姉(しょうめいいんちがんしんけいだいし)と戒名が授けられ、朝廷より従二位を追贈されたのでした。

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終わりに

以上、徳川家重の正室・増子女王が歩んだ生涯を駆け足で紹介してきました。

徳川家重。先ほどの肖像とは別人のようだが、歴代将軍で最も美男子であったとの伝承も。長谷寺蔵

増子を喪った家重は、その後正室を迎えることはなく、よほど彼女へ愛情をかけていた(正室の座を空けておきたかった)のかも知れません(ただし世継ぎをもうける関係で、側室はいました)。

果たしてNHKドラマ10「大奥」では誰(もちろん男性)がキャスティングされ、どのようなアレンジを魅せてくれるのか、今から楽しみにしています!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第五編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 岩沢愿彦ら校訂『徳川諸家系譜 1』続群書類従完成会、1974年8月

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