村正(むらまさ)と言えば室町・戦国時代を代表する名刀の一派として知られ、多くの戦国武将にも愛用されてきました。
しかし徳川家康(とくがわ いえやす)はこの村正を嫌い、家臣たちにも使用を禁じたと言われています。
一体どんな理由があったのでしょうか。今回は江戸幕府の公式記録『東照宮御実紀附録(徳川実紀)』より、家康が村正を禁じたエピソードをひもといていきましょう。
いかにして此作の當家にさゝはる事かな……
……三郎殿二股にて御生害ありし時。検使として渡辺半蔵守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人帰りきて。三郎殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。 君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも涙流して居し内に。本多忠勝榊原康政の両人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。其後山城守へ。今度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。 君聞し召し。さてあやしき事あもる(原文ママ。もある、の誤植?)もの哉。其かみ尾州森山にて。安部彌七が 清康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて小刃もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の 當家にさゝはる事かな。此後は御差料の内に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。……
※『東照宮御実紀附録』巻三「信康自害之検使」「家康退村正刀」
時は天正7年(1579年)9月。家康は自分の嫡男・徳川信康(とくがわ のぶやす。三郎)に切腹を命じました。
甲斐の武田勝頼(たけだ かつより)と内通していた容疑により、盟友である織田信長(おだ のぶなが)の圧力に屈したのです。
検使(検屍。切腹を見届ける役)として派遣していた家臣の渡辺守綱(わたなべ もりつな。半蔵)と天方通興(あまかた みちおき。山城守)が帰参し、涙ながらに信康の最期を報告しました。
「三郎。何ゆえ斯様なことに……」
一同は声もなく涙を流す中、家中きっての豪傑である本多忠勝(ほんだ ただかつ)や榊原康政(さかきばら やすまさ)は堪えかねて声を上げて泣き出したそうです。
やがて一しきり泣いて落ち着くと、山城守へ尋ねました。
「時に介錯の刀は、誰の作か?」
「……千子村正(せんご むらまさ。初代村正)にございまする」
それを聞いて家康はいぶかしみます。
「これは単なる奇遇だろうか。かつて我が祖父・松平清康(まつだいら きよやす)を斬った安部彌七(あべ やしち)の刀は村正だった。そしてわしが幼いころ、手を切ってしまった小刀も村正だった。そして今回も村正だと言うではないか。この村正は、よほど当家に因縁があると見える」
というわけで家康は、今後家臣が村正を差すことを禁じ、持っている刀はすべて処分するよう命じたということです。
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終わりに
かくして徳川家中において村正は禁じられ、家康の村正アレルギー?は他家の者へも及びました。
例えば関ヶ原の合戦で活躍した織田長孝(おだ ながたか。信長の甥)の槍まで村正だからという理由で砕いてしまったと言います。
また、家康の父・松平広忠(まつだいら ひろただ)を暗殺した岩松八弥(いわまつ はちや)が持っていたのも村正だったと伝わるものの、こちらは創作の可能性が高いようです。
その後も村正=徳川家に仇なす妖刀という伝承に尾ひれがついて、幕末期には討幕を志す薩長の志士たちが好んで村正を差したとか。
数百年の激動を乗り越え、現代も多くの名作が伝わる村正。その妖しい刃光は、今も人々を魅了し続けています。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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