時は安政7年(1860年、万延元年)3月3日、桜田門外の変によって、大老である井伊直弼(いい なおすけ)かを尊皇攘夷派の志士らの襲撃を受け、暗殺されてしまいました。
実行犯は18名。そこには浪士だけでなく、神官の姿さえあったと言います。
彼の名は斎藤監物(さいとう けんもつ)。はたして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
神官として水戸藩と交流

斎藤監物は文政5年(1822年)、常陸国那珂郡静村(茨城県那珂市)に鎮座する静神社(しずじんじゃ)で神官(静長官)を務める斎藤文静(ぶんせい)の子として誕生しました。
諱を斎藤一徳(いっとく/かずのり)、号を斎藤文里(ぶんり)と言います。
※監物は官途名(通称)。以下「斎藤監物」で統一しましょう。
斎藤家は代々当社の神官を務め、彼もまた神官を世襲しました。
静神社は大同元年(806年)創建。式内社•常陸国二之宮に列せられた由緒ある古社です。
斎藤監物は神々に奉仕する中で尊皇攘夷思想を深め、やがて加倉井砂山(かくらい さざん)や藤田東湖(ふじた とうこ)らに師事しました。
そうした縁から水戸藩主•徳川斉昭(とくがわ なりあき)が藩校•弘道館(こうどうかん)に勧請した鹿島神社の神官も務めます。
尊皇攘夷派への弾圧

そんな斎藤監物は弘化元年(1844年。天保15年)に徳川斉昭が幕府から咎められ、隠居•謹慎処分となってしまいました。
これを不服として斎藤監物は、水戸藩領内の神官•神職らをかき集め、幕府に対して徳川斉昭の処分解除を求めます。
幕府当局がそれを受け入れるはずもなく、斎藤監物らは禁錮刑に処せられてしまいました。
禁錮刑が解除されたのは嘉永2年(1849年)、実に4年間の雌伏を強いられたのです。
その後も幕府の攘夷派に対する弾圧は続き、いわゆる安政の大獄に際しては神官ら61名で連帯し、弾圧の阻止に奔走しました。
しかし安政の大獄は断行され、多くの尊皇攘夷派が処分されてしまったのです。
桜田門外の変へ

事ここに至っては、もはや武力行使もやむなしと判断した斎藤監物。佐々木馬之助(うまのすけ。馬之介)と変名を用いて、非合法活動に従事するようになりました。
そして安政7年(1860年、万延元年)3月3日、斎藤監物は同志らと共に、安政の大獄を断行した大老•井伊直弼(彦根藩主)を暗殺します。
これが後世に伝わる「桜田門外の変」。彦根藩の行列を襲撃して戦闘となり、井伊直弼の首級を、薩摩浪士の有村次左衛門(ありむら じざゑもん。有村兼清)が上げました。
ほか、襲撃者は以下の通りです。
【水戸浪士13名】
- 関鉄之介(水戸浪士/現場総指揮。斬首)
- 岡部三十郎忠吉(水戸浪士/検視見届役。斬首)
- 稲田重蔵正辰(水戸浪士/闘死)
- 山口辰之介正(水戸浪士/自刃)
- 広岡子之次郎則頼(水戸浪士/自刃)
- 黒澤忠三郎勝算(水戸浪士/病死)
- 大関和七郎増美(水戸浪士/斬首)
- 森五六郎直長(水戸浪士/斬首)
- 蓮田一五郎正実(水戸浪士/斬首)
- 森山繁之介政徳(水戸浪士/斬首)
- 杉山弥一郎当人(水戸浪士/斬首)
- 広木松之介有良(水戸浪士/自刃)
- 増子金八誠(水戸浪士/潜伏)
【水戸藩士1名】
- 佐野竹之助光明(水戸藩小普譜/傷死)
【常陸国神官3名】
- 鯉淵要人珍陳(常陸神官/重傷自刃)
- 海後磋磯之介宗親(常陸神官/潜伏)
- 斎藤監物一徳(常陸神官/後述)
【薩摩浪士1名】
- 有村次左衛門兼清(薩摩浪士/重傷自刃)
以上18名。
神官が3名、現職の藩士(小普請とは言え)1名まで参加していたとは驚きですね。
その最期と辞世

井伊直弼を討つ大願を果たしたものの、彦根藩士との戦闘で重傷を負った斎藤監物。
黒澤忠三郎•佐野竹之助•蓮田一五郎らと一緒に老中•脇坂安宅(わきさか やすおり)邸へ押しかけ、『斬奸趣意書』を提出しました。
『斬奸趣意書』とは国のためにならざる奸賊(ここでは井伊直弼)を斬った理由(趣意)を説明するものです。
佐野竹之助は当日の夕刻に落命、斎藤監物も5日後の3月8日に息絶えてしまいました。享年39歳。
なお黒澤忠三郎は同年7月12日に病死、蓮田一五郎は文久元年(1861年)7月26日に斬首されます。
国の為め 積る思ひも 天津日(あまつひ)に
※斎藤監物の辞世。
融(ふれ)て嬉しき 今朝の淡雪
【歌意】降り積もった雪が、陽の光を浴びてとけようとしている。
【意訳】これまで募らせてきた国への思いが、今こそ昇華されようとしている。
ここに至純の志士がまた一人、歴史にその名を刻みつけたのです。
終わりに

今回は桜田門外の変に散った神官•斎藤監物について、その生涯をたどってきました。
かくすれば かくなるものと 知りながら
※吉田松陰
やむにやまれぬ やまとだましい
【歌意】こんなことをすれば、悲惨な結果になることは分かっている。しかしそれでも、いざ義挙に臨んでは生命を捨てねばらないのが大和魂というものであろう。
かつて安政の大獄で刑死した吉田松陰(よしだ しょういん)の歌が示す通り、神官でありながら、井伊暗殺に加担した心情は深く共感できるものです。
幕末には他にも多くの志士たちが身分の壁を超えて活躍したので、他の志士についても改めて紹介したく思います。
※参考文献:
- 岡村青『水戸藩』現代書館、2012年11月
- 山川菊栄『覚書 幕末の水戸藩』岩波文庫、1991年8月