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【歴人録】信長はわしが育てた!織田家の家老・平手政秀が切腹した理由とは?【どうする家康】

戦国時代
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織田信秀(おだ のぶひで)・織田信長(のぶなが)の二代に仕えた忠臣・平手政秀(ひらて まさひで)。

若き信長(幼名:吉法師)の傅役(もりやく。教育係)を仰せつかるも、大うつけぶりに振り回され、最後は面倒見切れぬとばかり切腹してしまいました。

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そんな「不憫キャラ属性」高めな政秀ですが、実際のところはどんな人物だったのでしょうか。

今回は平手政秀の生涯をたどってみたいと思います。

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外交方面で活躍した文化人

政秀寺にある平手政秀像。吉法師に振り回される好々爺を連想しがちだが、意外に堂々たる風格(画像:Wikipedia)

平手政秀は延徳4年(1492年)5月10日、平手経秀(つねひで。経英とも)の子として誕生しました。

幼名は狛千代丸(こまちよまる)、元服して初めは清秀と改名。五郎左衛門(ごろうざゑもん)の通称で呼ばれます。

官途(かんど。私称の官職)は監物(けんもつ)、後に中務丞(なかつかさのじょう)と名乗りました。

政秀は主に外交方面で活躍。天文12年(1543年)には上洛して朝廷との交渉を行い、天文17年(1548年)には美濃の斎藤道三(さいとう どうさん)との和睦をとりまとめます。

また茶の湯や歌道にも嗜みが深く、天文2年(1533年)に尾張を訪れた公卿の山科言継(やましな ときつぐ)を居城の志賀城(尾張国春日井郡。愛知県名古屋市)に迎え、そのもてなしを賞賛された程です。

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信長の傅役を務める

若き日の信長。小林清親「教導立志基 織田信長」

少し前後して、天文3年(1534年)に信長が生まれるとその傅役を拝命。次席家老となりました。

信長が14歳となった天文16年(1547年)には後見役として見事に初陣を支え、戦陣における作法などを指南します。

翌天文17年(1548年)には斎藤道三の娘・濃姫(のうひめ。帰蝶、道三の娘)との縁談を媒(なかだち)しました。

このまま順調に行けばよかったのですが、天文21年(1552年)に信秀が亡くなると、次第に信長との関係が悪化してしまいます。

信長にしてみれば「もう父上もおらぬし、これからは、わしの好きにさせてもらうぞ」といったところでしょうか。

そして天文22年(1553年)閏1月13日、政秀は自刃して果てたのでした。享年62歳。

なぜ政秀は自刃したのか?

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政秀が自刃した動機については、諸説あります。

よく言われるのが「信秀の葬儀に際して、信長が位牌に抹香をぶちまけた。自分の教育不行き届きを恥じて、また信長を諌めるために自刃した」というもの。

しかしそれなら葬儀の直後に腹を切るでしょうし、年をまたぐのは不自然です。

他には政秀の息子である平手五郎右衛門(ごろうゑもん。誰に当たるかは諸説あり)の駿馬を信長が横取りしようとし、これを拒否したために諍いが生じた結果とする描写が『信長公記』にあります。

また信長の大うつけぶりに愛想を尽かした重臣たち(※)が、実弟の織田信勝(のぶかつ。織田信行)を推し、彼らと対立した結果追い込まれた説もあるそうです。

(※)信勝の後見役である柴田勝家(しばた かついえ)や家老の林秀貞(はやし ひでさだ。林通勝)・林通具(みちとも)兄弟など、信長にとって看過できない勢力を形成していました。

【平手政秀の自刃理由・諸説まとめ】

(1)信長の大うつけぶりを諌めるため

(2)信長と不和が生じたため

(3)信勝派との政争に敗れたため

有力な後見役を喪った信長は悲しみにくれたと言います。しかしそれでも大うつけぶりは変わりませんでした。となるとやはり(3)信勝派との政争敗北説に説得力を感じます。

自分をかばうために命を捨てた政秀。それを悲しむなら、普通はここで振る舞いを改めるでしょう。

しかし信長にも考えがあった。だからこそ、信長は大うつけぶりを改めなかったものと考えられます。

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エピローグ

これからは、自分一人で闘わねばならない。信長は政秀のために寺院を建立。その名も政秀寺(せいしゅうじ。開山は沢彦宗恩)、まさに政秀を偲ぶための寺院でした。

戒名は政秀寺殿功菴宗忠大居士(せいしゅうじでんこうあんそうちゅうだいこじ)。何だか読んでいるだけで爺やのしかめっ面が目に浮かぶようです。

なお、政秀の首塚(自刃を介錯=斬首しているため)は東雲寺にあります。何で胴体と一緒に葬らなかったのか、不思議ですね。

以上、平手政秀の生涯をたどってきました。後に信長が天下人として躍進を遂げたのは、彼の教育がよかったのかも知れませんね。

【平手政秀・基本データ】

生没延徳4年(1492年)5月10日生~天文22年(1553年)閏1月13日没(享年62歳)
改名狛千代丸⇒平手清秀⇒平手政秀
通称五郎左衛門、監物、中務丞
両親平手経秀、母不詳
兄弟政秀、野口政利(子の説あり)、平手季定、平手長成
妻妾不詳
子女平手長政(異説あり)、平手久秀、平手汎秀(久秀の子説あり)、埴原寿安、お清(雲仙院、織田有楽斎長益室)
死因切腹
戒名政秀寺殿功菴宗忠大居士
墓所【菩提寺】政秀寺(名古屋市中区)
【墓碑】平和公園内政秀寺墓地(名古屋市千種区)
【首塚】東雲寺(名古屋市西区)
史跡平手政秀邸址(愛知県名古屋市北区平手町)

※参考文献:

  • 加藤國光 編『尾張群書系図部集』続群書類従完成会、1997年11月
  • 柴裕之 編『尾張織田氏 論集 戦国大名と国衆6』岩田書院、2011年11月
  • 『信長公記 巻之上』国立国会図書館デジタルコレクション

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