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【歴人録】天正伊賀の乱で織田の大軍に立ち向かった百地丹波とは何者?【どうする家康】

戦国時代
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はじめに(参照上の注意)

このコーナーでは調べもの等の参考になるよう、史料や文献に基づいてデータをまとめていきます(随時更新)。

新たな情報などございましたら、お問い合わせフォームよりお知らせいただけると幸いです。

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【百地丹波・略伝】

イメージ

伊賀国衆の一人として、織田信雄・織田信長の侵略に抵抗した百地丹波(ももち たんば)

一度は撃退に成功するものの、怒り狂った信長の大軍を前に衆寡敵せず、降伏を余儀なくされます。

その後、消息を絶ってしまいました(殺されたとも、逃げ延びたとも)。

一説には伝説の大泥棒・石川五右衛門に忍術を伝授した百地三太夫のモデルになったとも言われています。

【百地丹波・基本データ】

生 没弘治2年(1556年)生~寛永17年(1640年)4月18日没
出 身伊賀国名賀郡喰代(ながごおりほうじろ。三重県伊賀市)
身 分郷士(忍者?)
実 名百地正西?(読み・出典とも不詳)
通 称新左衛門、丹波守(官途名=自称)
父 母百地正永/母は不詳
兄 弟百地丹波・百地正高・姉妹(徳地道栄妻)
子 孫百地正高(養子)・百地正行・娘(北弥兵衛室)・百地新右衛門・百地市右衛門

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【百地丹波・略系図】

……百地正永-百地丹波=百地正高(弟を養子に)……

【百地丹波・略年表】

弘治2年(1556年)伊賀国名賀郡喰代に誕生する(1歳)
天正7年(1579年)9月織田信雄(信長次男)の侵攻を受け、これを撃退する(24歳)
天正9年(1581年)9月織田信長の侵攻を受け、柏原城に立て籠もる(26歳)
同年10月奮戦の末、城主の瀧野吉政が降伏を決断する
降伏後信長が伊賀の領民を大虐殺、当時9万人がいた内の3万人が殺されたとも、過半数が殺されたとも言われる(『伊乱記』)
百地丹波は殺されたとも、逃亡したとも言われる
寛永17年(1640年)85歳で世を去る

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【天正伊賀の乱における活躍を抜粋】

奮戦する百地丹波(イメージ)

……喰代村に百地丹波、百々某、田中氏……

……各々器具を引きしめ、得道具を所持して馳せ向ふ、彼等の従類郎徒には、なハ、鎌、竹鎗等を一様尓取持たせ、村勢雑兵をかり立て、数千騎を従へ、勇士等ハ馬野口に競ひ来り、勇みかゝつて待ちかけたり……

※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」

【意訳】喰代村からは百地丹波や百々某、田中氏などが参戦。各々得物を持って馬野口で敵の大軍を待ち受けた(※第一次)。

……喰代村の百地丹波も當城にかけ籠る、其の侍の都合四百三十八人、雑兵合せて一千二百余人、総て一千六百余人、右の外妻子童等記たるに遑奈し、此の如く尓死武者多く楯籠り、互に義を励まして一戦の時刻を、今や遅しと待ちかけたり……

※『伊乱記』巻之七「柏原合戦の事」

【意訳】百地丹波も柏原城に駆けつけた。武士は438人、雑兵1,200余人を合わせて1.600余人に達した。他にも彼らの家族が集まり、数えきれないほどであった。

みな死に物狂いで篭城し、祖国防衛の大義に燃えて織田の大軍を待ち受けた(※第二次)

……瀧野十郎、近地、中野、百地丹波、吹井大三郎等が放つ矢に寄手多く射伏せられたり……

※『伊乱記』巻之七「柏原合戦の事」

【意訳】城からは百地丹波らが矢を射放ち、織田の軍勢を苦しめた(※第二次)

……只奈らぬ伊賀者の慣にて、忍の術を得たるもの数十人有りしが、城外所々の焼き篝の暗きを窺ひ、夜々幾度か忍び出でゝ、諸大将の陣営に夜討をかけて焼き立つる奈ど、種々の兵術を以て寄手を悩ま寿事多かりき……

※『伊乱記』巻之七「城兵智略寄手を驚かす事」

【意訳】篭城する伊賀者の中には忍術を心得た者が数十人いたので、しばしば夜襲をかけて織田軍を撹乱。様々な忍術で敵を悩ませた(※第二次)

※ただしこの部分の記述について、百地丹波はじめ誰も明記されていないため、誰の武功かは不明。

参考文献

  • 『伊乱記』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 久保文武『伊賀史叢考』伊賀郷土史研究会、1986年12月

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