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【大河ドラマの予習に】甲斐の虎・武田信玄との決戦!三方ヶ原で窮地に陥ったが……【どうする家康】

戦国時代
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昨日の友も今日は敵……それが戦国の習いとて、かつて武田信玄(演:阿部寛)共謀して今川氏真(演:溝端淳平)を滅ぼした徳川家康(演:松本潤)。

しかし両雄並び立たず、やがて武田との衝突は避けられない事態に。そして元亀3年(1572年)12月22日、遠州三方ヶ原(静岡県浜松市)で雌雄を決します。

これが家康の人生における三大危機の一つ「三方ヶ原の合戦」。絶体絶命の窮地を、家康はどのように切り抜けたのでしょうか。

今回も江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』から紹介したいと思います。

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武田・徳川の断交そして開戦

……此頃信玄入道は当家謙信入道と御合体ありといふを聞大に患ひ。しからばはやく   徳川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し。はじめ天龍川を境とし両国を分領せんと約し進らせしを。など其盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を変じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申進らせければ。君も聞しめし。我は前盟のごとく大井川をへだてゝ手を出す事なし。入道こそ前に秋山山縣等をして我を侵し。今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが。是より永く通交をばたゝせ給ひけり……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「家康絶信玄」

時は元亀3年(1572年)、近ごろ家康が越後国(新潟県)の上杉謙信(うえすぎ けんしん)と親密になっているとの情報を受けた信玄。このままでは南北から挟み撃ちにされかねないと危機感を覚えます。

これまで激しく争った「甲斐の虎」と「越後の龍」。歌川国綱「甲越両将川中嶋大戦」

上杉はこれまで何度も争ってきた強敵。もちろん家康も強敵には違いないものの、これまで小競り合いだけで本格的な争いには至っていません。

よし、まずは徳川から潰そうと決めた信玄は、また謀略をめぐらせます。一方の家康もこの動きを感じとり、両国は永らく通交を断つことになりました。

……信玄はこれより彌姦謀を恣にして。しばゞゝ三河遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月山縣昌景を先手として五千余騎。入道みづから四万五千余の大軍をぐして遠江国にうちいり。多々良飯田などいへる城々せめ落し浜松さしてをしよする。此入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひの多けれど。兵衛軍法においてはよくその節制を得て。越後謙信と相ならび当時その右にいづる者なし。   当家は上下心をひとつにし力をあわする事。子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇気さへすぐれたれば。さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば。十二月廿二日三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ。御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「三方原戦(大戦之二)」

信玄が腰を上げたのは元亀3年(1572年)閏10月。山縣昌景(演:橋本さとし)が先鋒に五千余騎を率い、後から信玄が自ら四万五千の大軍を具して遠江国へ攻め込みます。

「申し上げます!多々良、飯田など各城陥落の由!」

「……左様か。まったく、あの腹黒坊主め。人格はともかく、戦は上杉殿に匹敵する達者じゃからのう」

いよいよ武田の大軍が浜松へ押し迫り、家康は自ら軍勢を率いて出陣しました。

揚洲周延「味方ヶ原合戦之図」

「よいか。仁者が勇気を備えれば、これすなわち王者の師(おうじゃのすい、無敵の軍勢)なり。義は我らにあり。心一つに力を合わせ、不義なる武田の侵略を今こそ攘(うちはら)うべし!」

「「「おおぅ……っ!」」」

いざ合戦の火ぶたが切られ、徳川勢は心一つに立ち向かいます。その様子は子供が親に孝行し、手が首(頭)をたすけるかのごとく一体となっていましたが、いかんせん多勢に無勢。散々に打ち破られた徳川方は、這々の体で浜松城へと逃げ帰ったのです。

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夏目吉信(夏目広次)、最期の奉公

……入道勝にのり諸手をはげましておそひ奉れば。夏目次郎左衛門吉信が討死するそのひまに。からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。(夏目永禄のむかしは一向門徒に組し。御敵して生取となりしが。松平主殿助伊忠此もの終に御用に立べき者なりと申上しに。其命たすけられしのみならず。其上に常々御懇にめしつかはれしかば。是日御恩にむくひんとて   君敵中に引かへしたまふをみて。手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て。御馬を浜松の方へをしむけ。その身は敵中にむかひ討死せしとぞ。)……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「三方原戦(大戦之二)」

しかし家康だけは最後まで諦めず、勝ちに乗じて押し寄せる武田勢を迎え撃とうと粘ります。

「御屋形様!早うお逃げ下され!」

夏目吉信(夏目広次。演:甲本雅裕)が家康を必死に説得するも、そこは頑固な三河武士。意地でも梃子でも動きません。

「えぇい、しからば御免!」

これ以上の説得は無理と判断した吉信は、無理やり家康が乗る馬の轡をとって浜松の方へ引き向け、槍の柄で馬の尻を引っぱたきました。

「こらっ、次郎左!」

さぁ馬の驚くまいことか。一心不乱に浜松城へと駆け出して、家康は事なきを得ます。

逃げる家康(右端)。武田の将を食い止めているのは広次か。小国政「味方ヶ原合戦図」

「武田の者ども、そなたらはこの夏目次郎左衛門が相手じゃ!腕に覚えのある者は槍合わせ願おう!」

こうして夏目吉信は壮絶な最期を遂げました。

「次郎左……っ!」

かつて夏目吉信は三河一向一揆(永禄6・1563年~同7・1564年)にかけて叛旗を翻したことがありました。やがて一揆は鎮圧されて吉信も生け捕られたところ、松平伊忠(まつだいら これただ)が助命を願い出ます。

「次郎左衛門を生かしておけば、きっと御屋形様の役に立ちます。どうかその時まで命をお預け下さいませ……!」

今がまさにその時。こうして夏目吉信は三河武士の名誉を取り戻したのでした。

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城門を開け放ち、響き渡る高いびき

……その時敵ははや城近くをしよせたれば。早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに。   君聞召かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて。門の内外に大篝を設けしめ。その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀までめしあがられ。やがて御枕をめして御寝ありしが。御高鼾の聲門外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに。鳥居。植村。天野。渡辺等の御家人突て出で追払ふ。……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「三方原戦(大戦之二)」

「御屋形様がお戻りじゃ!閉門、閉もーんっ!」

さて、家康が浜松城内へ駆け込むと番兵たちが急いで城門を閉めようとします。しかし家康はそれを止め、城門は開け放っておくよう命じました。

「まだ味方が戦っておる。彼らが戻って来られるようにしておくのじゃ」

「しかし、それでは武田の軍勢が城内へなだれ込んで参りまする!」

味方が入って来られるということは、当然敵も入って来られます。武田の大軍が城内へ入って来れば、もはや逃げ場はありません。

だから城門を堅く閉じて敵を防ぐ。それが当たり前ですが、家康は違いました。

開け放った城門の楼上より、太鼓を打ち鳴らす酒井忠次。月岡芳年「酒井忠次時鼓打之図」

「逆じゃ。武田ほどの戦巧者なればこそ、城門を開け放った方が入るのを躊躇うものぞ」

城門を堅く閉じていれば、敵は「入って欲しくない」すなわち「城内に罠の用意がない」と察して攻めかかるでしょう。

対して城門を開け放ったままであると、敵は「入って欲しい(わざと隙を見せている)」すなわち「城内に何かしらの罠が仕掛けてある」可能性を感じとるものです。

「でも、万が一武田の軍勢が……」

「うるさい、そん時はそん時じゃ。どうせ攻め込まれたら、いくら足掻いたって勝てはせん。皆も今の内に休んでおけ!」

とまぁ大層な開き直り。城門にでっかい篝火を上げさせた家康は奥へ引っ込み、「腹が減った!」と湯漬けを三杯ほど掻っ込みます。

人間、腹が満ちれば眠くなるもので、「寝る!」と枕を出させ、大文字に高いびき。先ほどの合戦でよほどお疲れだったのか、まぁうるさいことと言ったら……。

「……何じゃ?」

浜松城のすぐ近くまで迫った武田勢は、城内に響き渡る高いびきが不気味に思えてなりません。

「あれだけボロボロに打ち負かされて高いびきとは、到底正気の沙汰とは思えぬ。何か策がないとも限らぬゆえ、攻めかかるのはやめにして、後方へ陣を構えよ」

そこへ、負けたままでは気が済まないとばかり鳥居元忠(演:音尾琢真)・植村泰忠(うえむら やすただ)・天野康景(あまの やすかげ)・渡辺守綱(演:木村昴)らが再び門から飛び出して来ました。そのため武田勢は「やっぱり罠がある」と後退。

かくして家康の開き直りが功を奏し、浜松城は攻め落とされずに済んだということです。

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大久保忠世の夜襲と、馬場信房の苦言

……其夜大久保七郎右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより。穴山梅雪が陣に鉄砲うちかけしかば。その手の人馬犀が磯(原文ママ。崖)に陥りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき。勝てもおそるべきは浜松の敵なりと驚歎せしとぞ。(是三方原戦とて大戦の二なり。)……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「三方原戦(大戦之二)」

「めでたしめでたし……と言うとでも思ったか?」

まだ気が済まないのは大久保忠世(演:小手伸也)。粘り強さが強みなこの男は、わずかな手勢を率いて夜襲をかけました。

「用意、てーっ!」

穴山梅雪(演:田辺誠一)の陣中へ鉄砲を射かけると、武田勢はにわかに大混乱。近くの犀ヶ崖へと転落し、多くの死傷者を出したということです。

「まったく。浜松の連中と来たら、ただでは負けてくれぬようじゃ……」

さすがの信玄も呆れるやら感心するやら。三河武士の意地を見せつけられました。

……また武田が家の侍大将馬場美濃守信房といふもの入道にむかひて。あはれ日の本に越後の上杉入道と   徳川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。此たびの戦にうたれし三河武者。末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし。浜松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時。遠江の国をまたく   徳川殿にまいらせ。御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば。このごろは中国九国までも手にたつ人なく。やがて六十余州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば。入道つゞきて城をかこまんとせざりしもをはりなるべし……

※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「三方原戦(大戦之二)」

「畏れながら申し上げます」

ここで武田の侍大将・馬場信房(ばば のぶふさ。馬場信春)が報告しました。

馬場美濃守(信房)。歌川芳員筆

「此度の合戦で討死した三河勢にございますが、我らに頭を向けている者は皆うつ伏せに斃れ、浜松へ頭を向けていた者はみな仰向けに死んでおりました。これすなわち、誰一人として逃げた者はおらぬという証しにございます」

「ほう……して、何が言いたい」

「以前に駿河を攻め取った折、御屋形様が遠江に欲を出さず徳川殿へお任せしておれば……」

共に手を携えていれば、今ごろは中国・九州を平らげ、ゆくゆくは天下も出来たかも知れませんな……そんな信房のぼやきに、信玄も苦笑いしたことでしょう。

目先の欲に目がくらんで徳川を敵に回し、天下取りが遠のいてしまった後悔を胸に、信玄は引き上げていったのでした。

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終わりに

以上が『徳川実紀』の伝える三方ヶ原のあらまし。武田信玄にとっては、徳川を敵に回したことで天下取りから遠ざかってしまったと言えそうです。

もらしてしまった家康像。果たしてその真相は?

一説には家康が恐ろしさのあまり失禁してしまい、後の戒めとして自分のみっともない姿(いわゆる「しかみ像」。徳川家康三方ヶ原戦役画像)を描かせたといいますが、それはそれで大した余裕ですね。

(だって今にも殺されかねない状況下で、戒めようも何も「後」自体があるかさえ分からないのですから)

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではこれら数々の名場面をどのように描くのでしょうか。今からとても楽しみでなりません。

※参考文献:

  • 経済雑誌社『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小和田哲男『詳細図説家康記』新人物往来社、2010年3月

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