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【姉川合戦】ワガママすぎる信長の要求に見事応えた家康の武勇伝【どうする家康】

戦国時代
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時は戦国、元亀元年(1570年)。織田信長(演:岡田准一)は自分を裏切り、朝倉義景(あさくら よしかげ)に寝返った浅井長政(演:大貫勇輔)を討つべく兵を挙げました。

6月28日、信長は近江国姉川(滋賀県長浜市)を挟んで朝倉・浅井連合軍と対決。これが後世に名高い「姉川の合戦」、ここへ同盟軍として徳川家康(演:松本潤)も出陣しています。

織田陣中にて。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍のどっちが勝つのか、そして家康はどんな活躍を魅せてくれるのか、江戸幕府の公式記録『徳川実紀』を読んでみましょう。

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信長のワガママに応える家康

「え……この期に及んで御陣替えと仰せか?」

信長からの伝令を受けて、家康は愕然としました。

最初、信長は「わしが朝倉を討つゆえ、そなたには浅井を任せる」ということでした。それがいざ開戦直前になって「やっぱり逆にせよ」と言うのです。

徳川の家臣たちは口々に文句を言い出しました。

「いやいや、簡単に言いますけどね……これだけの兵(三千余騎)を動かすのに、どれほどの段取りを要したとお思いか?それをコロコロ変えられるとでも……」

「だいたい前情報では『朝倉よりも浅井の方が大軍』と聞いて、織田殿が『じゃあ朝倉はウチの担当で。だって敵の本軍だからね。サブの徳川殿は敵のサブである浅井を頼むわ』と言っていたではないか!」

イメージ

「それがいざ現場に来てみれば、朝倉の方が大軍(朝倉孫三郎景紀の率いる一万五千余騎。対して浅井の軍勢は八千余騎とおよそ半分)だったから『やっぱ徳川殿が朝倉をよろしくね』とは調子よすぎやしませんか?」

「で、我らを強敵と戦わせておいて、いざ劣勢となれば自分だけ逃げるんじゃろうて!ちょっと前(金ヶ崎の退口)みたいに!あの時は連絡すら寄越さなかったではないか!」

「そうだそうだ!元はと言えば、わざわざ近江・越前くんだりまで攻め込むのは織田殿の都合であって、我ら徳川家はそのお手伝いに過ぎぬ!」

まったくふざけるんじゃないよいい加減にしやがれ……何なら今すぐ三河・遠江に帰りたい……不満をぶちまける家臣たちに、家康は毅然と言い渡します。

姉川の合戦、徳川陣中にて。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

「そなたたちの申すこと、一つ一つもっともである。だがしかし、これだけの無茶を仰せということは、それだけ織田殿が我らの精強を恃みとなさっている証拠。ここで武勲を上げてこそ、三河勇士の名を天下に轟かせられよう!」

……御屋形様が仰せとあらば(いや、それって都合よく乗せられているだけなんじゃ……)と言う事で家臣たちも渋々ながら陣替えに従いました。

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五倍の敵も恐れるな!死に物狂いで朝倉勢を撃破

「……よいか者ども。我らは三千、敵の朝倉はおよそ五倍ぞ!しかし我ら三河武士は一騎をもって十騎に当たる強者揃い。然らば敵は実質我らが半分、恐るに足らぬ。勇気ある者はいざ進め、左衛門尉(酒井忠次)が後に続け!」

「「「おおぅ……っ!」」」

歌川芳虎「三河英勇伝 酒井左衛門尉忠次」

さぁ戦端が開かれました。酒井忠次(演:大森南朋)を先鋒に、狂ったように朝倉の大軍へ殴り込みます。

「行け行け行け、四方八方敵なれば、すべて殺して構わぬぞ!」

戦いというものは数ももちろん大切ですが、最後にモノを言うのは気合い。数の多い方は勝ちが見えているため自分の命を惜しみ、どうしても腰が引けてしまいがち。

一方で劣勢の方は自分が戦わねば死ぬだけですから、文字通り死に物狂いで戦わざるを得ません。まずは何とか、何としてでも生き延びたければ、目の前の敵を殺すのです。

「殺せ殺せ殺せ!どうせ死ぬなら、一人でも多く道連れじゃ!」

「「「ヒャッハァ……っ!」」」

まさに生きようと思って戦えば死に、死のうと思って戦えば生きるとの古言どおり。捨て身の徳川勢を前に、朝倉勢は奮闘も虚しく、真柄直隆(まがら なおたか。十郎左衛門)など多くの豪傑を失う結果となりました。

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劣勢の信長を援護し、浅井勢も蹴散らす

「姉川合戦図屏風」より、大太刀を振り回して闘う真柄十郎左衛門直隆。

何とか血路を斬り拓いた徳川勢。一息ついて織田勢を見ると……どうやら苦戦しているご様子です。

浅井方は先鋒を務める猛将・磯野秀昌(いその ひでまさ。丹波守)が織田の軍勢を十一段まで突き崩し、浅井長政も自ら家臣たちを叱咤激励して信長の本陣を脅かしました。

「こらっ、者ども狼狽えるでない!」

動揺を隠せない信長の本陣は旗が乱れ、遠目にもその劣勢がうかがえる始末。ここで信長なら盟友の苦戦を見捨てたかも知れませんが、家康は違います。

「織田殿の窮地を見捨てるな。者共かかれ、浅井の横っ腹を突いてやれ!」

「御意!」

今度は本多平八郎忠勝(演:山田祐貴)が真っ先駆けて、激闘の息も整えた精鋭たちが浅井の軍勢に躍りかかりました。

「すわっ、もう朝倉殿は崩れたのか!退け、退け……っ!」

不意を衝かれた浅井勢はしどろもどろになって敗走、こうして「姉川の合戦」は織田・徳川連合軍が勝利を収めます。

「此度の勝利はまことに徳川殿のお陰。礼を申す」

信長は家康に対して感状と共に備前長光(びぜんながみつ)の銘刀や様々な宝物を贈ったということです。

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終わりに

……かくて信長は浅井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば。さらば先浅井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて。また御加勢をこわれしかば。この度も又御みづから三千余兵をしたがへて御出陣あり。五月廿一日近江の横山の城へはをさえを残し小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢をこへば。朝倉孫三郎景紀を将として一万五千余騎着陣し。六月廿八日姉川にて戦あり。はじめ信長は朝倉にむかへば   君には浅井とたゝかひ給へとありしが。暁にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへと申進(知)らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のまゝに。大軍のかたにむかわんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。かくて越前の一万五千余騎   君の御勢にうつてかゝれば。浅井が手のもの八千余騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい聲あげてかゝりければ。朝倉勢も力をつくしけれどもつゐにかなはず。北国に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ。信長の手のものもいよゝゝさはぎ乱て旗本もいろめきだちぬ。   君はるかにこの機を御覧ありて。織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば。本多平八郎忠勝をはじめ。ものもいはず馬上に鎗を引提て浅井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる浅井勢も   徳川勢に横をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあわせければ。浅井勢もともに敗走してけるも。またく   徳川殿の武威によるところなりとて。今日大功不可勝言也。先代無比倫。後世雖争雄。可謂当家綱紀。武門棟梁也との感書にそへて。長光の刀その外さまゞゝの重器を進らせらる。(これを姉川の戦とて御一代大戦の一なり。)この後も佐々木承禎入道朝倉浅井に■し。近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば。又本多豊後守康重。松井左近忠次に二千余の兵を率してすくはしてたまふ……

※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「姉川戦(大戦之一)」

以上、『徳川実紀』の伝える姉川合戦のエピソードをざっくり紹介してきました。何だか信長下げ&家康上げばかり続きますが、本書が江戸幕府の公式記録だから仕方ありません。

歌川国芳「太平記英勇傳 井曽野丹波守貞正(磯野丹波守秀昌)」

ともあれ、その後も信長は浅井・朝倉・六角承禎(ろっかく じょうてい)を相手に戦いを繰り広げ、家康は本多康重(ほんだ やすしげ。豊後守)・松井忠次(まつい ただつぐ。左近)らを援軍に向かわせています。

かくして信長の窮地をたびたび救った家康の武勇伝。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのように描かれるのか、楽しみですね!

※参考文献:

  • 経済雑誌社『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小和田哲男『詳細図説家康記』新人物往来社、2010年3月
  • 二木謙一『徳川家康』ちくま新書、1998年1月

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