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徳川家康の次男・於義伊(結城秀康/岐洲匠)が羽柴秀吉の養子に出されるまで【どうする家康】

戦国時代
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徳川家康(とくがわ いえやす)の次男・結城秀康(ゆうき ひでやす)。親子なのに苗字が違うのは、他家へ養子に出されたからで、当時としては珍しいことではありませんでした。

まずは羽柴秀吉(はしば ひでよし。豊臣秀吉)の元へ、それから結城晴朝(ゆうき はるとも)の娘を娶り、各地を転々とする人生を送ります。

そこで今回は『藩翰譜』より、結城秀康が秀吉の養子に出されるまでのエピソードを紹介。短くも、実に波乱万丈な生涯の幕開けです。

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幼名は於義丸(おぎまる)。その意味は……

……三河守殿は、徳川殿第二の御子、御母は家の女房、いさゝかゆゑ有て、三河国産見(うぶみ)といふ所にて生れ給ひ、徳川殿御子ともし玉はず、本多作左衛門重次とりて養ひ参らせ、御名をば於義丸殿と申奉る……

※『藩翰譜』第一 越前

三河守=秀康は天正2年(1574年)2月8日、徳川家に仕える侍女(お万の方、於古茶)を母として誕生しました。ちょっと訳ありで浜松城を追い出されてしまい、三河国産見(愛知県東部)で生まれています。

訳ありというのは、家康の正室である築山殿(つきやまどの)が彼女を側室として認めなかったのです。当時の側室は勝手に迎えてよいものではなく、正室がきちんと身元を確かめてから許可されるシステムでした。

家康から認知してもらえず、可哀想なので本多重次(ほんだ しげつぐ。作左衛門)が養ってあげることにします。

ちなみに、家康がつけた幼名は於義丸(おぎまる、於義伊とも)。ネーミングの由来はギギというナマズの一種で、捕まえるとギィギィ鳴きます。これはこれで可愛いのですが、これを子供の名前につけるのはいかがなものでしょうか。

いかにこの子が家康にとって不都合で、可愛くなかったのかがよく分かりますね。可哀想に……。

兄・信康のとりなしにより、3歳で家康と再会するが……

弟を思う兄・松平信康。

……御兄岡崎の三郎殿、如何にもして、父上の見参に入ればやと思召し、於義丸殿三歳の御時、徳川殿岡崎に城に入らせ玉ふこと有りしに、かねて能く教へ参らせ、殿の渡らせ給ふほとりの明障子、引うごかし、父上々々と聞え給ひしに、徳川殿はやく心■させ給ひ、御座を立たせ給ふ所を、三郎殿御袖を扣へたまひ、信康が弟の候を、今日見参に入ればやと宣ふ、深く怨みいきとほり給ふ御気色見えければ、此上は見参無くては事あしかりぬと思召され、徳川殿再ひ御座につかせ玉ふ、三郎殿頓て於義丸殿の御手を引て参り玉ひ、近う渡り給へとありし程に、御膝の上にかきすゑ玉ひしかば、三郎殿歓ばせ給ふこと斜ならず……

※『藩翰譜』第一 越前

於義丸を気の毒に思ったのは長兄の岡崎三郎(おかざき さぶろう)こと松平信康(まつだいら のぶやす)も同じだったようで、信康は於義丸が3歳になった時、家康と引き合わせます。

「いったい何の用じゃ?」

岡崎城へ招かれた家康。するとそこには、於義丸がいるではありませんか。

「げぇっ、於義丸!」

家康は逃げ出そうとします。よほど築山殿が怖かったのでしょうね。しかし信康は家康の袖をつかんで逃がしません。

「父上、母は違えど同じ血を引く弟を、どうか愛でてやってはいただけませぬか」

しぶしぶ席に戻った家康は、信康が連れてきた於義丸を膝の上に乗せてやりました。家康は苦い顔をしていましたが、信康は大いに喜んだということです。

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秀吉の養子≒人質に出される

……かくても猶重次が許にぞ、ひとゝせならせ玉ひける。三郎殿うせ給ひて後は、徳川殿此人のましますを、頼もしき事に思召す。天正十二年冬、豊臣秀吉北畠殿につきて、御子一人、養君とし奉るべきよしを申さる、徳川殿異父同母の御弟、三郎四郎殿をのぼせ給ふべしとありしに、御母上ゆるさせ給はねば、力なく、於義丸殿のぼらせ玉ふべきに定り、この年十二月の末、大坂尓趣かせ玉ふ……

※『藩翰譜』第一 越前

いくら都合の悪い子供でも、一度情が移ればきっと可愛がってくれるはず……そう願った信康でしたが、家康はやっぱり於義丸を浜松には招かず、相変わらず本多重次に養わせたままでした。

やがて天正7年(1579年)に信康と築山殿が謀叛の疑いで処刑され、家康は「あぁ、於義丸(それなりに成長している男児)がいてよかった」と、於義丸を母ともども浜松城へ招きます。

怖い築山殿がいなくなったからできた芸当ですが、すでにこの頃は家康の三男・長丸(ちょうまる。徳川秀忠)と四男の福松(ふくまつ。松平忠吉)が生まれていました。

家康の寵愛も長丸と福松を生んだ西郷局(さいごうのつぼね。於愛の方)に移っており、母の於古茶(おこちゃ。お万)はほぼ放置状態となります。

そんな天正12年(1584年)の冬、羽柴秀吉が織田信雄(おだ のぶかつ。北畠殿)の仲介で「徳川家との親交を深めるべく、養子を迎えたい」と申し出ました。養子なんて名ばかりで、実質的には人質です。

「えぇ~、そんな……」

ここで秀吉と事を構えたくない家康。そこで「徳川の縁者なら誰でも、血が薄くてもよかろう」とばかり、異父弟の松平定勝(まつだいら さだかつ。三郎四郎)でも養子に出しておこうと考えますが……。

「絶対!だめです!」

家康に怒りの猛抗議をしたのは、母の於大(おだい)。しょせん久松俊勝(ひさまつ としかつ。再婚相手)の血を引く他人だと思って、たやすく人質に出されてはたまりません。

「……まぁ、仕方あるまい」

可愛い長丸と福松を人質には出したくない家康は、とりあえず於義丸を秀吉の養子に出そうと決定します。

「長丸や福松も、じきに成長するだろうし……」

というわけで於義丸11歳、親元を離れ秀吉の元へと旅立つのでした。

秀康と改名。12歳の新たな旅立ち

秀吉の養子として、新たな人生を切り拓いていく羽柴秀康。

……秀吉深く悦ひ、やがて元服の儀行なはれ、羽柴秀康と名のらせ、河内国にて所領参らせ、一万石 明る十三年七月十一日、みづから関白し給ふとき、秀康朝臣御年十二歳なるを、四位の少将兼三河守になさる……

※『藩翰譜』第一 越前

かくして秀吉の養子となった於義丸。実質的に人質とは言え、秀吉は大いに喜び、元服させて羽柴秀康と名乗らせました。また従五位下侍従兼三河守(じゅごいのげ じじゅう けん みかわのかみ)の官位を与えます(朝廷に推挙)。

明くる天正13年(1585年)7月11日、秀吉が関白となった時、秀康は従四位下左近衛権少将(じゅしいのげ さこのゑごんのしょうしょう)の官位に叙任されました。

時に秀康12歳、激動の人生はまだ始まったばかりです。

これから色々と活躍してくれるのですが、果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではどんなアレンジを魅せてくれるのでしょうか。岐洲匠の熱演が、今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 新井白石『藩翰譜 一』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小楠和正『結城秀康の研究』松平宗紀、2006年2月

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