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【どうする家康】羽柴秀吉の養子となった秀康(於義伊)。その後どうなる?【家康臣従編】

戦国時代
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……抑関白守殿を養君とし給ひし事は、去りし天正十二年の春より、北畠殿と軍起りしに、徳川殿、信雄の方人せさせ給ひし故、毎度軍に利を失ひ、徳川殿と戦ん事叶ふべからずと思召し返し、終に信雄と中直りす、これ偏に徳川殿に親しうならんが為なれば、彼御子養て、徳川殿にも見参せんと謀らる……

※『藩翰譜』第一 越前

時は天正12年(1584年)。織田政権の乗っ取りに成功した羽柴秀吉(はしば ひでよし)は、海道一の弓取りと名高い徳川家康(とくがわ いえやす)と対立。小牧・長久手の合戦で激闘を繰り広げました。

戦闘では家康に勝てなかった秀吉は、政治力を駆使して家康から戦いの大義名分を奪うことで、辛くも最終的な勝利を奪い取ります。

和睦の条件として、家康の男児を我が養子にもらいたい……実質的には人質ですが、家康は息子たちの中から次男の於義伊(おぎい。於義丸)を秀吉に差し出したのでした……。

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一、秀康が殺されようと知ったことか。家康の態度にお万は……

家康に上洛≒臣従を迫る秀吉(イメージ)

……されど徳川殿彼れの望に任せらるべしとも聞えざれば、守殿うしなはれ給べきなど風聞す、徳川殿此よしを聞召し、初め秀吉が望みしによつて、我子を與へぬ、彼子今は秀吉の子にこそあれ、家康が子にあらず、秀吉の子殺さんに、家康何とか思ふべきと、驚かせ給はず……

※『藩翰譜』第一 越前

さて、人質もとったし、これで家康もわしに臣従せざるを得んじゃろう。そう思った秀吉は、家康に対して上洛するよう命じました。

「久しぶりに、ご子息の顔も見たかろう?」

これは「上洛せねば、秀康の安全は保証しない」と言っているも同義。しかし家康は慌てず騒がず、使者にこう返答します。

「羽柴殿がお望みによって養子にやったのですから、もはや秀康は私の子ではありません。羽柴殿が自分の子供を殺そうがどうしようが、自分に関わりのないことです」

……秀康の御母 お万どの、後に長勝院といふ 深く是を歎き、此上は都にのぼり、兎にも角にも、守殿とこそ一所にならめとて、迷ひ出玉ふに、村田意竹入道、かひかひしく、御供して、都にのぼり、守殿の御館に入れまゐらす……

※『藩翰譜』第一 越前

これを聞いた秀康の母・お万(後に出家して長勝院)は嘆き悲しみ、せめて息子のそばにいてやりたいと一人で上洛。久しぶりの母子再会を果たしたのでした。

ニ、織田信雄の使者たちを追い返す

家康が秀吉と争う原因を作った織田信雄(画像:Wikipedia)

……同き十三年の十二月、北畠の使として、羽柴下総守勝雄、土方勘兵衛雄久、徳川殿に参り、殿は関白殿と年比の御恨あるにもあらず、一旦信雄が頼み参らせ候に依りて、御合戦に及ひき、信雄だに既に関白殿と中直りしつ、然るに信雄が故を以て、両家長く仇結ひ玉はん事、返す返すも歎きいりぬ、あはれ、東西御和睦あらんには、信雄が幸ひ何事か是に過んやと申さる、御許容の御気色もなくて、使をば返されたり……

※『藩翰譜』第一 越前

そんな天正13年(1585年)12月、家康の元に織田信雄の使いとして、羽柴勝雄(はしば まさかつ)・土方雄久(ひじかた かつひさ)がやって来ました。

「もともと徳川殿は関白殿下と何の怨みもなかったところ、織田様(信雄)の頼みによって合戦に及んだのですよね。いまや織田様は関白殿下と仲直りしたのですから、徳川様お一人がいまだ関白殿下といがみ合っているのは、誠に嘆かわしいことにございます」

これを聞いた家康の怒るまいことか。そもそも信雄が織田の天下を取り戻すため、秀吉と戦ってくれと泣きついてきたからこそ、仕方なく戦ってやったのです。

それを勝手に和睦しておいて、自分たちだけ平和主義者のような顔をしているとは何事でしょう。

家康はたちまち使者たちを追い返してしまったのでした。

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三、京都になど興味はない。鷹狩りこそ武士の楽しみ

都よりも、鷹狩りが好き(イメージ)

……明る正月二十一日に、下総守勝雄、また関白の御使となつてまゐる、御物語の序に、殿は久しう都の方は御覧ぜぬにて候、今は都のやうも、昔には事かはつて侍れば、且は御心をも慰められんがため、且は秀吉御父子にも御対面のため、御上洛あるべうもや候と申ければ、家康いま秀康に対面して何事をか語らふべき、且彼父の関白殿にだにも、参会に及ぶべからず、まして其公達に於てをや、家康信長の御時、都に登りて、見つべき所をば皆見つ、都恋しう思ふ所もなし、鷹臂にし狗曳かせ、野くれ里くれ狩くらす、何事の慰みか、この慰みに代ふべき、彼につき、是につきて、都に登らんともおほえず、たゞし秀吉みづから当時朝の御覚え、世のなびき従ふを恃みて、家康をも門下に伺候させんずるなど思て、上洛を催されんには、汝たゞ真直に申せ、家康また思ふ所ありと仰せられしかば、勝雄大に恐れて、秀吉いかでさる事を思ひ玉ふべき、是はたゞ勝雄が存ずる處を、申たるに候とて、頓て御暇申て罷帰る……

※『藩翰譜』第一 越前

しかし天正14年(1586年)1月21日、羽柴勝雄はまたぬけぬけとやって来ました。今度は秀吉の使者としてです。

「徳川殿は久しく京都へはおいでになっていないご様子。今は都もすっかり様変わりしているので、きっと楽しめると思いますよ。またせっかくですから、関白殿下と御曹司(秀康)に会われてはいかがでしょう」

これを聞いて、家康はうんざりして答えます。

「今さら彼らに会って何を話そうと言うのだ。まして都の公家どもなど、会う価値もない。わしは織田様(信長)のころ上洛して、京都の見るべきものはすべて見た。別に都が恋しいとも思わぬ」

「……」

「武士たる者、鷹狩りをして猟犬と共に野山を駆け回る暮らしのほか、何が楽しいと言うのだ……関白殿下にお伝えせよ。『もし我が上洛をたってお望みとあらば、わしにも思う所がある』と」

これを聞いて震え上がった勝雄は「いえいえ、上洛せよなどと……あくまでそれがしが『遊びに来られたら楽しかろう』と私見をのべたまでにござる」と言い訳して、慌てて帰って行ったのでした。

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四、妹どころか、母親まで人質に差し出す秀吉

秀吉の妹・朝日姫。既に夫がいながら、無理やり離縁させられ、家康に嫁いだ(画像:Wikipedia)

秀吉この由を聞玉ひ、とやせん、かくやすべきと案じわづらひ、きつて案じ出して、御妹君を徳川殿の北の方に参らせらる、此上は、関白に見参有べしと聞えしかば、御家人等が心を安んぜんが為、都に御逗留の程、其国にとゝめさせ給へとて、大廰を下し給ひしによつて、やがて都に登り給ひぬ……

※『藩翰譜』第一 越前

「ほう、あのタヌキ親父は上洛せぬか」

秀吉はなかなか膝を屈しない家康を何とかしようと、今度は妹の朝日姫(あさひひめ)を家康の正室として嫁がせました。

これで徳川家から秀康、羽柴家から朝日姫とそれぞれ人質を交換した形になります。

「さぁ、ここまでしてやったのだから、義兄上たる関白殿下にご挨拶せぇ!」

(えぇ……正直ありがた迷惑なんだけど……)

まったく家康は困ってしまいます。ノコノコ上洛などしたら、何をされるか分かったものじゃありません。

「いやいや何もしないって……ようし分かった。それじゃあウチの母ちゃん、もとい大廰(おおまんどころ。大政所)を妹の見舞いに出そう。ここまですれば信じてくれるか!?」

さすがにここまでされたら、家康も応えない訳にはいきません。かくして家康は上洛し、秀吉に臣従したのでした。

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終わりに

秀吉の母・大政所(画像:Wikipedia)

一度養子に出した以上、徹底的によその子扱いされた秀康。この件で母親のお万は家康に愛想が尽きたのか、ずっと秀康に付き添い続けるのでした。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では、これらの場面がどのように描かれるのか、今から注目しています。

※参考文献:

  • 新井白石『藩翰譜 一』国立国会図書館デジタルコレクション

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