「唐橋(からはし)を制する者は天下を制する」古来そう謳われ、しばしば決戦場となった瀬田(せた)の唐橋。
琵琶湖へと注ぎ込む瀬田川にかかるこの橋は、飛鳥時代に大友皇子(おおとものおうじ。後の弘文天皇)と大海人皇子(おおあまのおうじ。後の天武天皇)が皇位継承を賭けて争った「壬申の乱」の舞台ともなりました。
(※)大友皇子は天智天皇(てんじてんのう。第38代)の皇子、大海人皇子は天智天皇の弟に当たります。
今回は飛鳥時代、大友皇子の部将として最期まで奮戦した智尊(ちそん)を紹介。果たして彼は、どのような戦いを演じたのでしょうか。
ここは譲れない!瀬田橋で敵の大軍を迎え撃つ
智尊の生年および出自は不詳、「ちそん」という日本人らしくない響きから渡来人、あるいは僧兵だったのかも知れません。「ともたか」等ではないのかとも思いますが、名前だけを記すのも不自然ですから、智尊でフルネームなのでしょう。姓(かばね)はありません。
その他のことは一切分からず、『日本書紀』では瀬田の戦いに出陣したことのみが記録されています。
さて時は壬申(みずのえのさる。672年)7月22日、6月24日から勃発した戦乱は大海人皇子の制するところとなり、いよいよ大友皇子の本拠地・近江大津宮まであと一息のところまで迫ってきました。
ここを抜かれたら、もう後はない……大友皇子は智尊に精鋭を与え、最後の関門となる瀬田の橋を守らせます。
「敵の大軍が一気呵成に渡ってきたら不利になる……そうだ」
智尊は部下に命じて中央部分の橋板を外させ、そこに長い板をわたしました。
「この板に綱を結んでおき、敵が渡ってきたら綱を引いて、川に落としてやろう」
何だか子供の悪戯みたいな罠ですが、それでは気にせず突っ込めるかと言えば少し気後れしてしまうもので、大海人皇子の軍勢は板を渡らず、対岸から矢を射かけてくるばかり。
「よし、こちらも負けずに射返せ!」
かくして瀬田川を挟んで矢戦さを続けていた両軍でしたが、このままでは埒が明きません。
「……誰か、この橋を渡れる者はおらんのか!」
「ならば、それがしが」
誰もが怯む中、一人進み出たのは大分稚臣(おおきだの わかおみ)。豊後国大分郡(現:大分県大分市、由布市一帯)の豪族で、革の鎧を重ね着すると刀を抜き放ち、降り注がれる矢の雨にも怯むことなく板を駆け渡ります。
「来たぞ……(綱を)引けーっ!」
罠を発動させて大分稚臣を川に落とそうとした智尊でしたが、あまりの気魄に怯んでしまったのか、部下たちは我先にと逃げ出してしまいました。
「こら、何をしている。相手は一人だ、逃げるな!」
綱を「引け」と命じたのを、軍勢を「退け」と勘違いしたのか、あるいは(敵前逃亡の言い訳が出来るよう)わざと誤解した風を演じたのか……いずれにしても、一度こうなってしまうと態勢を立て直すのは容易ではありません。
「おのれ……逃げる者は斬るぞ!」
抜刀して凄んだ智尊でしたが、それでも兵たちは止まらず、仕方なく数名を斬り捨ててもなお止まらず、猛然と斬り込んで来た大分稚臣と相まみえることとなります。
「そこにおわすは名のある大将とお見受けした、我こそは大分稚臣。お手合わせ願おう!」
「……我が名は智尊、冥土の土産に覚えておけ!」
かくて両雄斬り結び、後から橋を渡って突入してきた者たちによって智尊は討ち取られたのでした。
エピローグ
智尊。帝大友悉衆出瀬田橋西旌旗蔽天気勢甚鋭智尊爲先鋒。撤橋板三丈萬弩乱発是以敵無敢進者東軍将大分稚臣。揮大刀疾進守兵驚散智尊大怒抜刀斬退者而不能止我軍大潰。智尊獨留奮戦終死于橋上……
※菊池容斎『前賢故実』より
この敗戦をもって大友皇子は再起を諦め、翌7月23日に自害。ここに壬申の乱は幕を閉じたのでした。
大友皇子の皇位継承はなりませんでしたが、実は壬申の乱以前に即位していたとの説もあり、千年以上の歳月を経た明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号を贈られ、歴代天皇陛下に数えられました。
(※)そのため、天皇陛下の代数は天智天皇(38)⇒弘文天皇(39)⇒天武天皇(40)となります。
非業の死を遂げた主君が晴れて皇位継承(割り込み?)を果たし、智尊の奮闘も少しは報われたことでしょう。
※参考文献:
- 菊池容斎『前賢故実 巻第二』雲水無尽庵、1868年
- 井上光貞ら『日本書紀 下』岩波書店、1993年9月
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