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【鎌倉殿の13人】國村隼が演じる大庭景親ってどんな武将?その生涯をたどる!

大河ドラマ
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令和4年(2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

コメディとシリアスの調和が絶妙な三谷幸喜の脚本と、主演の小栗旬をはじめ個性豊かなキャスト陣が人気を呼んでいます。

今回はそんな一人、國村隼さんが演じている相模国の有力者・大庭景親(おおば かげちか)を紹介。

年恒「石橋山合戦之図」より、大場(大庭)三郎景親

初登場は第2回。伊東祐親(演:浅野和之)と北条時政(演:坂東彌十郎)の対立を仲裁、平氏政権を後ろ盾に持つ存在感を示しました。

やがて挙兵した源頼朝(演:大泉洋)の行く手を阻む強敵となるのですが、果たしてどのような生涯をたどったのでしょうか。

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頼朝の挙兵前史

大庭景親は相模国の大庭御厨(おおばのみくりや。中央部の穀倉地帯)一帯を代々領する鎌倉一族の棟梁・大庭景宗(かげむね)の次男として誕生しました。

通称は三郎(さぶろう。平三郎)。兄弟に大庭景義(かげよし。太郎)、豊田景俊(とよだ かげとし。次郎)、俣野景久(またの かげひさ。五郎)がいます。

菊池容斎『前賢故実』より、大庭景義(馬首の陰に身を沈めている)。

次男なのに三郎というのは、兄弟たちと腹違いで、父と生母との間における三男もしくは三番目の子を意味するのでしょう。

初陣は不明ながら、景親が史料に登場する戦役は保元元年(1156年)に勃発した保元の乱

兄の景義と一緒に源義朝(みなもとの よしとも。頼朝の父)へ従い、窮地に陥った兄を命がけで救出したエピソードが伝わっています。

この戦いで膝に矢を受け、身体が不自由になった兄から家督を譲られた景親は鎌倉一族を団結させ、豊かな大庭御厨を狙う東の三浦党・西の中村党からの侵略を防ぎました。

そんな中、平治元年(1159年)から永暦元年(1160年)にかけて義朝らがクーデターを起こします(平治の乱)。

『平治物語絵巻』三条殿焼討

この時に三浦・中村の両党が義朝へ加担した一方、景親らは距離を置いていたため、やがて義朝が敗死すると平氏政権によって東国の御後見(ごこうけん、おんうしろみ)に引き立てられました。

後見とは現代でも後見人がいるように、東国という一種の法的人格に対する後見で、要するに名目的な支配を任されたと言えます。

以来20年間、相模国における鎌倉一族の地位は揺るがぬものとなり、対する三浦・中村らは没落して雌伏の時を送るのでした。

間もなく義朝の遺児・頼朝が伊豆国へ配流されてきますが、ちょくちょく交流があったらしいことを『曾我物語』などが伝えており、謀叛人の子であってもあまり気にしなかった大らかさが感じられます。

以仁王の挙兵を鎮圧、頼朝を石橋山に撃破

さて、そのまま何もなければよかったのですが、歳月は流れて治承4年(1180年)5月。京都で以仁王(演:木村昴)と源頼政(演:品川徹)が平氏討伐の兵を挙げました。

大番役として京都に赴任していた景親はこれを鎮圧したものの、平家の家人である伊藤忠清(いとう ただきよ)に呼ばれ、頼朝の挙兵について訊ねられます。

「北条時政と比企掃部允(ひき かもんのじょう。頼朝の乳父)が頼朝を担ぎ上げて謀叛を起こそうとしているらしいが、何か知っておるか?」

歌川芳虎「大日本六十余将 北條相模守時政」

景親はこれをはぐらかしました。頼朝だけならともかく、親しい者たちがかなり親密な関係になっていたため、連座を懸念してのことでしょう。

「さ、さぁ……まぁ舅の北条はともかく、比企はとっくに死んでいます。どうも東国に関する情報が混乱しているようだから、ここは軽々に動かず、よく確認した方がいいでしょう」

帰国した景親は親しい者たちに「頼朝がマークされ始めたから、今後の付き合いに注意しろ」的なアドバイスをしています。

頼むから余計なことはしないでくれ……景親がそう思っていたかはともかく。8月17日に頼朝たちは挙兵、山木兼隆(演:木原勝利)と堤信遠(演:吉見一豊)を討ち果たしたのでした。

出来ることなら避けたかったが、ひとたび挙兵してしまった以上、討たずばなるまい……。

伊豆国へ逃げ込んでいた以仁王の残党・源有綱(ありつな。頼政の孫)を討つべく準備していた景親は頼朝追討の任務に当たります。

景親は鎌倉一族を総動員した3,000騎を率いて8月23日、相模国石橋山で頼朝ら300騎を撃退します(石橋山合戦)。

ちなみに兄の大庭景義と弟の豊田景俊は頼朝に与しており、景親は景久と組んで骨肉相食む死闘を演じたのでした。

大庭三郎景親と俣野五郎景久。歌川国芳筆

あと一歩のところまで頼朝を追い詰めたものの、取り逃がしてしまった景親。

しかし「もはや再起することはあるまい」と高を括っていたのか、頼朝を追うことなく大庭御厨に戻って平氏の援軍を待ちます。

たった2ヶ月で逆転され、兄の手により非業の最期

しかし京都からの援軍は準備が遅れ、対する頼朝は逃げ延びた房総半島はじめ坂東各地の豪族たちを次々と従えて捲土重来を果たしました。

そして10月6日に鎌倉入り。頼朝の軍勢は数千とも数万とも言われる大軍に膨れ上がったそうです。

頼朝の鎌倉入りについては何の抵抗もなかった(誰も抵抗できなかった)という説にや、景親が全力で阻止するべく戦ったなど諸説あり、東国の御後見たる意地を示したのかも知れません。

10月18日に景親は京都からようやく近づいて来ていた平氏の援軍と合流するべく1,000騎を集めるます。しかし源氏の大軍を前に進むことが出来ず、やむなく兵を解散して山中へ逃げ込みました。

10月20日に富士川の合戦で平氏の軍勢が敗走すると、もはや勝機なしと判断した景親は10月23日に投降しました。

ちょうど2カ月前に石橋山で頼朝らを蹴散らしたのに、その立場は完全に逆転。その身柄は上総介広常(演:佐藤浩市)に預けられます。

歌川芳虎「大日本六十余将 上総介広常」

「懐島の(景義。家督を譲ってからは隠居先の懐島を名乗っていた)。大庭の命、助けて欲しいか」

頼朝から訊ねられた景義は、さぞや困惑したことでしょう。助けて欲しいのはやまやまながら、いくら弟とは言え、ここで敵方に同情すれば生き残った鎌倉一族を危うくしかねません。

「佐殿に、お任せ申す」

「ならば、そなたが斬れ」

他人の手にかかるくらいなら、せめて身内の手で……という慈悲でしょうか。あるいは「我らに仇なした弟を斬って、服従の誠意を見せろ」というメッセージだったとも考えられます。

かくして治承4年(1180年)10月26日、景親は固瀬河のほとりで斬られ、その首級をさらされたのでした。

エピローグ・鎌倉一族その後

その後、俣野景久は各地を転戦して北陸で討死。景義は大庭の家督に復し、景俊は鎌倉殿4代に仕えて承久の乱(承久3・1221年)にも参陣しました。

かつて頼朝がやって来る前は相模国の覇者であった鎌倉一族は次第に衰退。幕府の御家人として細々と命脈をつないでいきます。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では身柄を引き受けた広常がそのまま景親を斬るようですが、景親はどんな最期を魅せるのでしょうか。

國村隼さんの熱演を、最期まで見届けたいと思います。

※参考文献:

  • 元木泰雄『日本歴史叢書 武士の成立 新装版』吉川弘文館、1994年8月
  • 栃木孝惟ら校注『保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月
  • 貴志正造 訳注『全譯 吾妻鏡 第二巻』新人物往来社、1979年10月
  • 細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月

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