鎌倉幕府の第2代将軍となった源頼家(みなもとの よりいえ)。18歳という若さで鎌倉殿を継承した頼家は、溌剌たる才気を持て余したがゆえに、数々の悪行を犯してしまいます。
家臣の愛妾を奪ってみたり、土地争いで出鱈目な判決を下してみたり、はたまた歴戦の勇士から所領を取り上げてみたり……などなど。
今回はそんな一つ、僧侶の黒衣を奪って燃やしたエピソードを紹介。いったい頼家は、なぜそんなことをしたのでしょうか。
黒衣を悪ましめたもうのゆえ……次々と火中へ投じる
羽林令禁断念佛名僧等給。是令惡黒衣給之故云々。仍今日召聚件僧等十四人。應恩喚云々。然間。比企弥四郎奉仰相具之。行向政所橋邊。剥取袈裟被燒之。見者如堵。皆莫不彈指。僧之中有伊勢稱念者。進于御使之前。申云。俗之束帶。僧之黒衣。各爲同色。所用來也。何可令禁之給哉。凡當時案御釐務之体。佛法世法。共以可謂滅亡之期。於稱念衣者。更不可燒云々。而至彼分衣。其火自消不燒。則取之如元着。逐電云々。
※『吾妻鏡』正治2年(1200年)5月12日条
頼家(羽林)は念仏僧に対して布教活動の禁止を申し渡しました。
その理由というのが令惡黒衣給之故(こくえをにくましめたもうのゆえ)……要するに彼らが「黒い袈裟を着ているのが気に入らないから」なのだとか。
単に辛気臭いと思ったのか、あるいは頼家の許されていた禁色(きんじき。身分によって朝廷より公式に着用を許されている色)が黒で、それと同じ色を着ているのが気にくわなかったとも言います。
さっそく活動禁止を申し渡すべく、指導者14名に出頭を命じたもののなかなか来ません。それで側近の比企弥四郎時員(ひき やしろうときかず)に命じて片っ端から連行させました。
「やっちまえ!」
政所の橋(現:筋替橋)までやってきたところで、頼家は時員に命じて僧侶から黒衣を剥ぎとらせ、次々と燃やしてしまいます。
僧侶たちは阿鼻叫喚、沿道には野次馬が寄ってたかり、罰当たりなことだとめいめい指を鳴らします(現代で言うエンガチョみたいなおまじない)。
そんな中、ただ一人だけ平然としている僧侶がいました。彼の名前は伊勢称念(いせの しょうねん)、進み出て時員に告げました。
「俗人の束帯と僧侶の黒衣が同じ色だと言うが、それの何が気に入らないのか。昨今の世相を見ると、仏法にも世の道理にも外れておる」
「うるさい!いいからその黒衣をよこせ!」
「無駄ですよ。その衣は決して燃えることがないでしょうから」
何を言ってやがる……称念から黒衣を引ったくって火中へ投じた時員でしたが、確かに火は燃え移りません。
そんなバカな。何度火をつけようとしても、燃えることなく勝手に消えてしまいます。
「……お気はすみましたかな」
称念は火中より黒衣を拾い上げると元の通り身にまとい、どこへともなく去っていったのでした。
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終わりに
その後、念仏禁止令は間もなく廃れてしまい、頼家は天下の笑い者になってしまったとか。
僧侶の黒衣が自分の禁色と同じで気に入らない、と考えるより、むしろ「自分の禁色が僧侶の黒衣と同じで畏れ多い」と前向きにとらえる謙虚さが大切なのではないでしょうか。
ただし、人格的に難があるからと言って、頼家が無能とは限りません。
マタ昔今フツニナキ程ノ手キキニテアリケリ、ノクモリナクキコエキ
【意訳】(頼家について)古今無双の敏腕であると曇りなき名声であった。
※『愚管抄』より
父・源頼朝から英雄の才気を受け継いだ頼家ですが、神仏を篤く信仰する心も受け継いで欲しかったところです。
※参考文献:
- 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年6月
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