はじめに(参照上の注意)
このコーナーでは調べもの等の参考になるよう、史料や文献に基づいてデータをまとめていきます(随時更新)。
史料によって記述が異なる点も原文のまま記載していくことが多いため、あくまで「この文献によると」という意味でご理解ください。
【石川数正・略伝】
徳川家康の人質時代から付き従い、外交や合戦で活躍した知勇兼備の名将・石川数正(いしかわ かずまさ)。
後に家康を見限り、羽柴秀吉に仕えることとなったその生涯を、データベースにまとめました。
時代劇(大河ドラマなど)の予習復習、調べものなどのご参考にどうぞ。
【石川数正・基本データ】
生 没 | 天文2年(1533年)生~文禄2年(1593年)没・61歳 |
通 称 | 助四郎、与七郎 |
改 名 | 数正→康輝→吉輝 |
官 位 | 伯耆守、出雲守/従五位下 |
両 親 | 石川康正/松平重吉女 |
兄 弟 | 妹(松平家信室)、石川小隼人 |
妻 妾 | 内藤義清女、松平家広女 |
子 供 | 石川成綱、石川康長、石川康勝、石川政令、石川康次、石川定政 |
戒 名 | 寂音院殿靜誉了禅大居士位 |
墓 所 | 正行寺(長野県松本市)、本宗寺(愛知県岡崎市) |
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【石川数正・略年表】
天文2年(1533年) | 誕生(1歳) |
天文18年(1549年) | 今川の人質となった竹千代(元康、家康)に同行(17歳) |
永禄3年(1560年) | 桶狭間の合戦を機に元康が独立(28歳) |
永禄4年(1561年) | 織田との合戦(石ヶ瀬合戦)で先陣を務める(29歳) |
永禄5年(1562年) | 織田信長との和平・同盟交渉を担当する(30歳) |
同年 | 今川氏真の人質になっていた竹千代(信康)を捕虜交換で取り返す。 |
永禄6年(1563年) | 三河一向一揆の鎮圧に当たる(31歳) |
永禄10年(1567年) | 信康が元服すると後見人になる(35歳) |
永禄12年(1569年) | 西三河の旗頭(家臣たちのまとめ役)となる(37歳) |
元亀元年(1570年) | 姉川の合戦(対 浅井長政・朝倉義景)で武功(38歳) |
元亀3年(1572年) | 三方ヶ原の合戦(対 武田信玄)で敗れるも武功(40歳) |
天正3年(1575年) | 長篠の合戦(対 武田勝頼)で武功(43歳) |
天正7年(1579年) | 信康の粛清(築山殿事件)により岡崎城代に(47歳) |
天正12年(1584年) | 小牧・長久手の合戦(対 羽柴秀吉)で武功、和睦を提言(52歳) |
天正13年(1585年) | 徳川家を去り、秀吉に仕える(53歳) |
天正18年(1590年) | 信州松本に8万石(10万石説も)を与えられる(58歳) |
文禄2年(1593年) | 死去(61歳。ただし異説あり) |
『寛政重脩諸家譜』が伝える石川数正
●数正
※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川
助四郎 伯耆守 出雲守 従五位下 母は某氏。
天文十八年東照宮駿河国におもむかせ給ふのとき供奉の人を選ばる。数正其随一なり。永禄四年水野信元と尾張国石瀬にをいて合戦の時、さきがけして敵将高木主水清秀と鎗をあはす。このとし織田右府より、瀧川一益を数正がもとにつかはして、和議のことを申入らるゝにより、すなはちこのことを言上し、右府と御和議ありてしかるべきむね申せしかば、御許容ありて、御返答に及ばれける。右府大によろこび則一益林正成をして、数正高力與右衛門清長等と鳴海に相会さしめ、尾張三河の境をさだめらる。このとき西三河の諸城を右府よりかへしまいらす。のち右府に御対面あらむと尾張国清州に入らせたまふのときも、従ひたてまつる。其のち叔父日向守家成に掛川の城をたまふのとき、仰によりてこれに代り、西三河の旗頭役となる。元亀元年姉川の役にしたがひたてまつり、その余三方原及び長篠の戦に軍忠を励し、また駿遠両国に御出陣ありて、所々の城をせめたまふのときも先陣に列す。天正十年武田家没落ののち、甲斐国に御出陣ありて、北條氏直が兵と御戦陣のとき従ひたてまつる。十一年五月豊臣太閤に初花の茶壷を贈りたまふのとき、数正於使をつとむ。十二年四月長久手合戦のとき、仰によりて酒井忠次本多忠勝とともに小牧山の御陣営を守り、六月前田甚七郎長種が前田の城をせめ、城兵降をこふて引しりぞく。のち太閤大坂にかへり、羽柴下総守雄利及び冨田左近将監知信津田隼人正某を使として和議をこふ。東照宮諸臣を集めてこのことを議せらる。数正すゝみ出ていはく、秀吉天下の半を領して諸将おほく其下風にたつ。今御麾下の士彼に比すれば其なかばにもたらず、かつ北に上杉あり、東に北條あり、三方の敵を受ばたとひ一旦利を得るとも永く敵しがたし。其望にまかせ早く和議を許容したまひて、万歳の謀をなしたまふべしとなり。東照宮御気色よからず、我寡兵なりといへども何ぞ大兵を畏れむやとて、其使者に御答なかりしかば、其のちしばゝゞ使者をもつて和をこふにより、遂に御許容ありて越前中納言秀康卿大坂に至らせたまふ。数正したがひたてまつり、男康長等を彼地にとゞめて仕へしむ。十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ。のち従五位下に叙し、出雲守にあらたむ。十八年七月小田原落城の後、信濃国松本の城主となり八万石を領す。文禄二年卒す。的翁宗善筒三寺と號す。室は内藤右京進某が女。
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【参考文献】
- 阿部猛ら編『戦国人名事典 コンパクト版』新人物往来社、1990年9月
- 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年11月
- 高柳光壽ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1963年2月
- 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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