神奈川県藤沢市に戦国時代の城跡があると言うので、通りすがりに攻めて……もとい、訪ねて来ました。
その名も御幣山城(おんべやまじょう)。玉縄城(鎌倉市)の支城として南西の守りを固める役割を果たしたと伝わります。
さて、どんな歴史があるのでしょうか。
一度、武田信玄に奪われる
御幣山という地名の由来は、鎌倉時代の高層・道教律師(どうきょうりっし)が山の頂に御幣があるのを見たからとのこと(誰が立てたのでしょうね)。
そこへ城あるいは砦が築かれたのは永禄元年(1558年)ごろ。城主は北条氏の家臣・大谷公嘉(おおたに きみよし)が務めます。
しかし永禄12年(1569年)に甲斐国から武田信玄(たけだ しんげん)が北条の本拠地である小田原へ侵攻。
大谷公嘉は小田原へ援軍に出た隙を突かれ、あっさり攻め落とされてしまいました。
元亀2年(1571年)には御幣山一帯を支配していた信玄が地元の清浄光寺に藤沢200貫、俣野(横浜市)100貫を寄進したと言います。
後に北条氏政(ほうじょう うじまさ)が御幣山城を奪還。大谷公嘉も城主の座を取り戻しました。
やがて天正18年(1590年)に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が北条征伐に乗り出すと、大谷公嘉は上野国西牧城(群馬県下仁田町)へ援軍に出ます。
しかし現地で徳川家康(とくがわ いえやす)の部将・松平康国(まつだいら やすくに)と松平康寛(やすひろ)兄弟に攻め滅ぼされてしまいました。
御幣山城に残っていた者たちも降伏し、間もなく廃城になったと考えられます。
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今も根づく御幣の地名
さて、実際に現地へ行ってみると、往時を偲ばせる遺構などは何もありません(少なくとも、素人目には分かりませんでした)。
どこにでもありそうな高台の住宅地で、一番高い所から「ここに物見櫓を建てたら見晴らしがよさそうだなぁ」と感じたくらいです。
ただし、藤沢市の調査によって戦国時代の掘建て小屋など遺構が発見されているため、今後も何か見つかるかも知れません。
また地図を見ると近くに御幣橋(おんべばし)や御幣公園があり、御幣山自治会など地域の暮らしに根づいています。
今後、御幣山城に関する新事実の解明が楽しみですね。
※参考文献:
- 児玉幸多 編『増補版 藤沢 わがまちのあゆみ』藤沢市文書館、1984年10月
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