Wikipediaで天草四郎(あまくさしろう。益田時貞)について検索すると、いかめしい鎧武者の肖像が掲載されています(※令和5・2023年5月5日時点)。
歴史の教科書でよく見ていた天使のようなやさしい顔立ちを想像していたので面食らったものの、もしかしたら「戦場では温和な表情を隠さねばならなかったのかも知れない」と納得していました。
しかし、この「競勢酔虎傳(けいせいすいこでん)」シリーズは他の英雄たちについても紹介しており、そのいずれも幕末期(主に戊辰戦争)が舞台となっています。
そんな中で、時代の大きく離れた(江戸時代初期の)天草四郎時貞が一人だけ紹介されているのは少し不自然なんじゃないでしょうか。
もしかして、天草四郎という同姓同名の他人なのでは……?さっそく「競勢酔虎傳」の本文を読んでみたいと思います。
足柄越に咲いた血汐の花
時も弥生の下旬にあたり。紫色(ししょく)を常奈る藤の花◆朱(あけ)◆咲しハ奇といふべく。是此変事の前兆奈る哉(や)。脱籍の勇士諸国尓蜂起し。戦争止むとき奈かりし中丹
東の海辺尓兵を挙。山路尓攻入る甲斐もなく。味方の足場足柄越、敵の陣に翻る旗の章(しるし)の藤色を。血汐の朱に染せしハ。此大将の花なるべし三筋街の隠士 轉々堂主人記
【意訳】時は3月下旬(現代の4月下旬)、いつもは紫色に咲く藤の花が、どういう訳か朱色に咲いている。これは異変の前兆ではないだろうか。
※月岡芳年(当時の筆名は大蘇芳年)「竸勢酔虎傳 天草四郎」
このとき、脱藩した志士たちが諸国で兵を挙げ、各地で戦争が続いている。そんな中、東の海辺で兵を挙げ、一路山中へと攻め入った。
しかし武運に恵まれず、足柄峠(足柄越)で敵陣に翻る藤色の旗印を、この大将の血で染めたのである。
と、三筋街のご隠居・転々堂(てんてんどう)主人が語った。
……この記述を見ると、少なくとも島原の乱の描写ではなさそうです。天草四郎時貞の討死は寛永15年(1638年)2月28日ですから、日付が合いません。
東の海辺というのがどこかは不明ですが、足柄峠(現:神奈川県西部)より東と仮定するならば、この天草四郎は相模か江戸、あるいは房総半島の沿海部で兵を挙げたようです。
果たしてこの天草四郎が本名なのか、それとも島原の乱を意識して自称したのかは定かではありません。
また、挙兵の目的が佐幕か討幕かもハッキリしませんが、少なくとも日本の行く末を憂えて命を賭けたことは間違いないでしょう。
その尊い志しが、末永く日本人に受け継がれることを願ってやみません。
※参考:
- 大蘇芳年「競勢酔虎傳 天草四郎」
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