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天下布武の決め手は減税!?織田信長の政治は意外と領民思いだった【どうする家康】

戦国時代
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税金、納めるの大変ですよね。社会のために必要と分かっているし、義務だから頑張って納めていますが、生活が苦しいのは筆者だけではないと思います。

税金に苦しんでいたのは古今東西どこも同じだったようで、戦国時代の農民たちも四公六民(収穫高の四割を年貢に納める)あるいは五公五民なんていう重税に苦しんでいました。

働けども、働けども……(イメージ)

年収の40~50%を税金で持っていかれる……そりゃ生活も苦しいはずです。

「とは言え、どこもほとんど一緒だからしょうがないよな……」

と思ったら、何と織田信長(おだ のぶなが)の領国では年貢が「収穫高の三分の一」というではありませんか。ざっくり三公七民の計算になります。

領民とすれば願ったり叶ったりですが、どうしてこんなことが可能だったのでしょうか。いっときの人気とりで減税しても、財源がなければ行きづまってしまいます。

信長が大減税を可能にした要因には、早くから押さえていた豊かな財源と、大胆な改革がありました。

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知多半島(商工業)と津島湊(流通網)が飛躍のカギ

信長が押さえていた知多半島と、後に押さえる東洋随一の商都・堺。

織田家は早くから商工業の要衝である知多半島(尾張国の南部)を押さえ、また津島湊(愛知県津島市)を通じて盛んに交易を展開していたのです。

その収益は一国の税収にも相当すると言われ、織田家に潤沢な軍資金をもたらしました。それで早くから兵農分離を徹底し、精鋭部隊を編成できたことはよく知られています。

商工業だけではダメ、港だけでも力不足。どちらも兼ね備えたことは、信長の天下布武にとって大きな原動力となったのです。

と聞くと、どうしてそんなに港がいいの?陸路で運べばいいんじゃないの?と思われるかも知れません。

しかし陸路は敵対勢力が街道を封鎖したり、そうでなくとも通行税をとったりします。それが商品コストに上乗せされれば、販売力が大きく低下してしまうでしょう。

もちろん海路でも海賊に通行税や用心棒代をせびられるリスクはあるものの、海の上なら護衛船団を編成するなど融通が利きます。そして何より速度も交易範囲もケタ違いです。

この利点を最大限に活かせたからこそ、信長は小国の領主でありながら飛躍を遂げられたと言えるでしょう。

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減税で領民が定着、より経済が安定化する仕組みづくり

「織田の殿サンが来てから、ずいぶん暮らしが楽になったナ」「そうさねェ、お前ぃサン」

さて、交易によって一国の税収に相当する利益を確保した信長。年貢を安くすることで領民の暮らしを安定させ、それが彼らの定着につながりました。

もちろん現代と違って、気軽に引越しなどできたわけではありません。しかしあまりに生活が苦しい≒年貢の取り立てが厳しいと、せめてもの対抗手段として逃散(ちょうさん)が行われました。

逃散とは村あるいは集落ぐるみの夜逃げで、しばしば為政者を悩ませています。

たとえば甲斐の武田信玄(たけだ しんげん)などは逃散者に対して「どこまでも追い駆けて税金を取り立てろ(要約)」と分国法(甲州法度之次第)に定めていました。

多くの戦国大名が税の取り立てに必死だった中、信長はあえての大減税。周囲の勢力が悪循環に陥るほど、信長は好循環に恵まれます。

やがて当時世界トップクラスの商業都市・堺(大阪府堺市)港を押さえてからは、ほぼ全所領に対して減税を実行。信長に支配されたがる領民たちの支持を得て、ますます所領を拡大していくのでした。

信長が天下布武に邁進できた理由は、ただ武力だけではなく、経済・人望を加えた三位一体にあったのですね。

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意外と細やか?信長が定めた十一ヶ条の基本法

また信長は、領国において様々な施策を打ちます。その基本方針となる取り決めが伝わっており、以下のような内容(※意訳)でした。

一、関所や駒の口(荷駄を検査する機関。現代の税関)にて税を徴収すべからず。
一、百姓前(農民)より年貢以外の税を徴収すべからず。
一、地侍につき忠義の者は取り立て、抵抗する者は追放あるいは自害せしめよ。
一、訴訟に際しては十分に吟味した上で判決を下せ。
一、国侍らを丁重に取り扱う一方、なめられぬよう気を遣うべし。
一、所領や財産を得たら独占せず家臣らに配り、また新たな者を召し抱えよ。
一、本国(美濃・尾張一帯)で仕官を望む者があればよく身元を確かめ、その者が前に仕えていた主人の了解をとってから召し抱えよ。
一、どの城も堅固に普請しておくべし。
一、平時から鉄砲、弾薬、兵粮の蓄えを怠らぬこと。
一、所領内の道路整備は領主が責任をもって普請すべし。
一、所領の境界が入り組んでいる地域はもめやすいが、多少のことで相手を憎むべからず。

最初の2ヶ条は、役得とばかり何かと金銭をせびる者がいたようで、とかく領民の保護を重視する姿勢が好印象です。

また6・9~10条目については「徴収した税は私利私欲ではなく、ちゃんと公益のために使え」と釘を刺しています。

3・5・7条目では少しでもよい家臣を取り立て、領内の抵抗勢力を一掃するよう注意を払わせました。
特に7条目は取り立てた後でトラブルがないよう、前の主人に了解をとるよう指示しています。

そして4・11条目で訴訟や土地問題に言及、円満な解決に向けた姿勢が信長らしからぬ?細やかさです。

こうした施策がどこまで徹底されたかはともかく、トップがこういう姿勢を打ち出すことによって、家臣や領民たちは大いに安心したことでしょう。

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終わりに

今も日本史上トップクラスの人気を誇る信長。その理由は、こんな一面にあるのかも知れない(イメージ)

豊かな財源を確保して減税など大胆な改革を行う一方、領民たちへの細やかな気配りも忘れなかった織田信長。戦国時代を経済面から見ると、信長が天下布武に邁進できたのも納得ですね。

減税によって庶民が活気づき、経済が盛り上がる。現代社会の閉塞感を打破するヒントになるようにも思えます。

現代広くイメージされている「天才肌の暴君」という信長像も、研究が進むにつれて次第に改まっていくのかも知れません。

※参考文献:

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