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危機一髪!徳川家康を狙う武田信玄の刺客を捕らえたところ……【どうする家康】

戦国時代
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人質の身分から天下人へと成り上がった徳川家康(とくがわ いえやす)。その道のりには多くの強敵が立ちふさがり、「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄(たけだ しんげん)もその一人でした。

「甲斐の虎」武田信玄。家康にとって最恐の敵であり、また師でもあった。月岡芳年筆

数度にわたり激闘を繰り広げた両雄ですが、真っ向からの戦さのみならず、水面下での暗闘もあったようです。

今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、とある刺客のエピソードを紹介したいと思います。

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間一髪!襖越しの一撃

武田信玄が徳川家康と関係を持つようになったのは、信玄が家康に共に今川氏真(いまがわ うじざね)を滅ぼそうと信玄が持ちかけた頃のこと。

「今川領のうち西の遠江(静岡県西部)は徳川殿、東の駿河(静岡県東部)は我らで分け合わぬか」

「よかろう、承知した」

武田信玄と共同で今川氏真を滅ぼす(C)歴史屋

今川家は先代・今川義元(よしもと)を喪って以来勢力が衰え、果たしてそれぞれ領国の拡大に成功しました。が、これでめでたしかと思いきや、話はそれで終わりません。

信玄は「やっぱり遠江も欲しいな」と思ったか、あるいは元から「段階的に駿河・遠江を切り取り、そのまま徳川の三河も滅ぼしてしまえ」と思っていたか、家康にもちょっかいを出し始めます。

武田信玄の裏切り(C)歴史屋

しばしば合戦に及ぶのと同時進行で、信玄は家康の暗殺も考え、ある少年(姓名不詳、以下ナニガシ)を刺客に遣わしました。

「首尾よく果たせば、過分の褒美を申しつけよう」

「御意」

当時ナニガシは13歳。徳川領へ潜入し、まんまと家康の側仕えになったと言います。それにしても、どこの馬の骨とも分からぬ少年が取り立てられるとは、よほど魅力(利発であった、容姿にすぐれていた等)があったのでしょう。

家康はナニガシを究竟(くきょう。非常に好都合)な者と心安く召し使っていたのですが、ついにその日はやって来ました。

「覚悟!」

千載一遇の好機(イメージ)

夜になって寝ようとしていた家康。そこへ襖越しに突いたものの、間一髪で外してしまいます。

「曲者!」

たちまち捕らえてみれば、何とナニガシ。彼を信頼していた家康はさぞ驚いたことでしょう。

「……いかがなされますか?」

取り調べの末に洗いざらい白状させた家臣が、ナニガシの処分を伺います。普通なら「殺して首を送りつけてやれ」「耳と鼻を削いで解放せよ(勝手に逃げ帰る)」辺りがお約束ですが、家康はそのまま解放することに。

「何ゆえにございますか」

「わしはこれを永らく信用しておった。此度怒りに任せて害すれば、我が不明を天下に知らしめることになろう」

本質を見抜けなかったのは自分の不明、それを害すれば恥の上塗り……かくしてナニガシは解放され、信玄の元へ戻ったのでした。

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終わりに

信じていた者の殺意に驚きながら、あえて解き放った家康の胸中は(イメージ)

三一 信玄家来十三歳より家康をねらひ候事「家康公を討ち取り候はゞ、過分の褒美申し付くべし。」と信玄申され候。何某十三歳より家康公へ奉公仕り、或夜御休み入られ候處を一刀切、差し通し申し候。家康公、襖一重外に看経なされ候が、則ち御とらへ御穿鑿なされ候へば、有體に申し出る。「究竟の者と見及び、心安く使ひ候が、猶々感じ入り候。」と仰せられ、信玄へ御送りなされ候由。

※『葉隠聞書』第十一巻より

以上『葉隠』より信玄の刺客について紹介してきました。いかんせん後世の伝承なので真偽こそ怪しいものの、信じていたのに騙された者の態度としては、現代にも通じる教訓が感じられます。

以来、家康は身辺に近侍させるものを厳選したことでしょうが、もしここで家康が討たれていたら歴史がどう変わっていたか、考えてみると面白いですね。

※参考文献:

  • 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、1941年9月

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