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【ネタバレ注意!】眞栄田郷敦が熱演!武田勝頼はどんな最期を遂げたのか【大河ドラマどうする家康】

戦国時代
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最強大名の遺伝子を継ぐ若き猛将

武田四郎勝頼 たけだ・しろうかつより
[眞栄田郷敦 まえだごうどん]

武田信玄の若き後継者。幼いころから信玄に厳しく育てられた強靭な体力と精神の持ち主。父の知略・軍略の才も受け継ぎ、武田史上最大まで領地を広げる。三方ヶ原の戦いで壊滅的な打撃を負わせた徳川を、さらに追い詰める。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

元は庶子として生まれながら、長兄・武田義信(よしのぶ)の廃嫡・粛清により家督が回って来た武田勝頼(演:眞栄田郷敦)。

偉大なる父を超えるため、奮闘する武田勝頼。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

信玄以上とも謳われた将器を備え、父・武田信玄(演:阿部寛)亡き後も徳川家康(演:松本潤)の前に立ちはだかります。

長篠の合戦(天正3・1575年5月21日)では織田信長(演:岡田准一)に惨敗し、後に武田家を滅ぼされてしまったことから暗君とされがちな勝頼。しかし武田家の勢力が最高潮に達したのも彼の時代です。

今回はそんな勝頼と、彼の嫡男である武田信勝(のぶかつ)父子の最期にフォーカスを当てて紹介したいと思います。

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「太平記英勇傳」が伝える武田勝頼の最期

落合芳幾「太平記英勇傳 武田勝頼」

伊奈四郎と号◆信玄遺命志曰く勝頼の子太郎信勝を家嫡となし勝頼をして國事を主どらしむ勇猛比なしていへとも性昏愚尓して邪を信し正を廃し功罪明奈らざる時尓福島の城主木曾義昌勝頼をうらんで安土尓内通寿信長大軍を率いて信州に乱入し数城を降寿勝頼新府尓入てト先避ん事を議寿信勝諫めて今臣叛き國い◆人避て何國へ往◆◆唯死べしとゝく天目山尓赴る従者やうやく四十余人勝頼はじめて大炊長閑可”姦を悔内藤土屋ら可”忠を謝し竟に自殺して果てたるとぞ

※落合芳幾「太平記英勇傳 武田勝頼」

【意訳】元は伊奈四郎と名乗り、信玄の遺言により、嫡男の武田太郎信勝に家督を譲り後見していた。

比類なき武勇を誇っていたが、暗愚のため自分に取り入る佞臣を取り立て、自分を諫める忠臣らを退ける。

功績を上げても報いられないことを怨んだ木曾義昌(きそ よしまさ)が織田信長に内通。信長は大軍を率いて信州から攻め込んできた。

勝頼に愛想を尽かしていた城兵らはたちまち降伏。勝頼は国外脱出を図ったところ、嫡男の信勝に「家臣に見捨てられた以上、どこへ逃げようと言うのですか。かくなる上は潔く戦って死ぬまでです」と諫められる。

やがて天目山までやってきたところ、従っていたのはわずかに40名ばかり。事ここに及んで、勝頼は初めて大炊(おおい。跡部勝資)や長閑(ちょうかん。長坂釣閑斎光堅)に惑わされていたことを悔やむ。

そして、かねがね苦言を呈してくれた内藤昌秀(ないとう まさひで。既に討死)や土屋昌恒(つちや まさつね。既に討死)らの忠義に感謝し、自刃して果てたのであった。

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「太平記拾遺」が伝える武田信勝の最期

落合芳幾「太平記拾遺 武田太郎信勝」

伊奈四郎勝頼の嫡子武勇智略衆に超たり信長信州尓乱入のミぎり武田の数城悉く潰たり勝頼諸将と議して一ト先敵を避んと云信勝奮然として曰そ◆◆祖先甲州尓國を建てより以来四百余年今民そむき臣はなれ我禄已尓尽たり唯城を枕尓討死◆すべしとありし可”勝頼きかざりて天目山尓走りたれバ信勝も彼処尓いたり残兵四十余人と勉戦して自殺◆したり

※落合芳幾「太平記拾遺 武田太郎信勝」

【意訳】武田勝頼の嫡男で、武勇智略に優れていた。信長が信州へ攻めて来た時、勝頼が諸将と共に逃亡を図ろうとしたことに憤る。

「祖先が甲斐に国を建ててから四百年。ここまで続いた武田家が民や家臣に見放され、命運すでに尽きた以上、城を枕に討死すべきです!」

しかし勝頼は聞き入れず、逃亡のすえ天目山にたどり着いた。信勝はわずかな敗残兵と共に奮戦した末、自刃して果てた。

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『徳川実紀(東照宮御実紀)』が伝える武田勝頼・信勝父子の最期

……十年信濃国福島の城主木曾左馬頭義昌は。かの義仲が十七代の末なりき。近年武田とはむすぼふれたる中ながら勝頼のふるまひをうとみ。ひそかに織田右府にくだり甲州の案内せんといへば。右府大によろこばれ。その身七万餘兵にて伊奈口よりむかはれ。其子三位中将信忠卿は五万餘兵にて木曾口よりむかはるゝよし聞えければ。   君も三万五千餘兵をめしぐせられ。駿河口よりむかはせたまふ。北條氏政も三万餘兵を以て武駿の口よりむかふべしとぞ定めらる。かくと聞て小山。田中。持船などいへる武田方の駿遠の城兵は。みな城を捨て甲斐の国へ迯帰る。   君の御勢は二月十八日浜松を打立て懸川に着陣す。十九日牧野の城(諏訪原をいふ。)に入せ給へば。御先手は金谷島田へいたる。右府は我年頃武田を恨ることふかし。今度甲州に攻いらんには。国中の犬猫までも伐て捨よとの軍令なりしが。こなたはもとより寛仁大度の御はからひにて。依田三枝などいへる降参のもの等は。志ろしめす国内の山林にひそかに身をひそめ時をまつべしとて。うちうち恵み賑はしたまへり。穴山陸奥入道梅雪はかの家の一門なりしが。是も勝頼をうらむる事ありしとて。彌生朔日駿河の岩原地蔵堂に参り   君に対面進らせ。御味方つかうまつらん事を約す。勝頼は梅雪典厩逍遥軒などいへる一門親戚にもおもひはなたれ。宗徒の家の子どもにもそむかれて。新府古府のすみ家をもあかれ出。天目山のふもと田野といふ所までさまよひ。その子太郎信勝と共にうたれたり。……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十年「天正十年武田氏亡」

一門衆の木曾義昌や穴山梅雪(演:田辺誠一)にまで見放され、天正10年(1582年)3月11日に甲斐国天目山(山梨県甲州市)で討たれたと言います。

武田逍遥軒(信廉)。歌川貞秀「武田勇士揃」

なお文中に登場する典厩(てんきゅう)とは従弟の武田信豊(のぶとよ。3月16日に自害)、逍遥軒は叔父の武田信廉(のぶかど。3月24日討死)。

ただし二人は勝頼を思い放った(見捨てた)訳ではなく、あくまで最後まで御家のために戦い抜こうとしていたのでしょう。

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終わりに

かくして四百年の永きにわたり甲斐国主と君臨してきた武田一族が、ここに滅亡したのでした。

しかしその家名を惜しんだ家康が武田の存続を図り、紆余曲折あって武田の子孫たちがその誇りを伝えています。

鍛錬にも余念がない勝頼。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では眞栄田郷敦の演じる勝頼がどのような最期を魅せてくれるのでしょうか。

そして信勝が登場するのか、これからも楽しみですね!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 柴辻俊六ら編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年1月
  • 平山優『武田氏滅亡』角川選書、2017年2月

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