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「食ってみろ」突きつけられた刀に怯まず、松江藩を救った幕末の女傑・玄丹おかよ

幕末維新
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戦国時代、刀に刺した饅頭を平らげた荒木村重(あらき むらしげ)。主君・織田信長(おだ のぶなが)の座興でえらい目に遭わされたものですが、似たようなエピソードが幕末にもありました。

刀の饅頭を平らげる荒木村重。落合芳幾「太平記英雄傳 荒木摂津守村重」

村重の場合は単なる度胸試しでしたが、こちらの事情はもう少し深刻。いったい何があったのでしょうか。

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父の願いを叶えるために……

時は幕末の慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の勃発に際して出雲松江藩は朝廷側(新政府軍)に味方することと決します。

しかし朝廷は徳川将軍家と縁の深い出雲松平家を疑ってかかり、鎮撫使として西園寺公望(さいおんじ きんもち)らを松江へ派遣。対する藩主の松平定安(まつだいら さだやす)は事情を説明しに上洛。入れ違いになってしまいました。

川路利良(画像:Wikipedia)

鎮撫使の副将である川路利良(かわじ としよし)は忠誠の証として所領の半分を差し出すか、藩の重臣ひとりに腹を切らせるかを迫ります。もちろん断れば戦争です。

さぁ、大変なことになりました。所領の半分を差し出せばみんなが飢えるし、抵抗したというならともかく、何の咎もなしに腹を切らされてはたまりません。

藩論がまとまらない中、鎮撫使らは朝廷の権威を振りかざして傍若無人の振る舞いを繰り返しました。それでも毅然とした態度をとれない上層部の弱腰に、藩内の不満が募ります。

そんな中、松江のはずれに錦織玄丹(にしきおり げんたん)という盲人が娘のおかよと暮らしていました。

「家老の大橋茂左衛門(おおはし もざゑもん)様が切腹と決まったそうだ!」

町人たちから話を聞いた玄丹は、かつて目を患う前に奉公していた頃を思い出します。

切腹を引き受ける大橋茂左衛門(イメージ)

「あの方は責任感が強かったから、此度の理不尽を引き受けられたのだろう。何とかしてお助けしたいものだが……」

「お父っつぁん。私、行ってくるよ!」

父の願いを叶えてあげたい。それ以上に、こんな理不尽なことで血が流されてはたまらない……覚悟を決めたおかよは、一人で鎮撫使らの宿舎へ出向きました。

「食ってみせろ」刀に刺した蒲鉾を……

「女手が足りぬと聞きましたゆえ、お手伝いに上がりました」

女性と見れば乱暴していた鎮撫使一行の元からは、みんな逃げ出してしまったのです。かくして酌婦として川路利良に近づいたおかよは、家老の赦免を願い出ます。

「この出雲で、畏れ多くも天朝さまに逆らおうなんて不届き者が一人だっているものですか」

「……そうかい。ならば」

利良はおかよを怖がらせてやろうと抜刀し、食膳の蒲鉾を刃に刺して突きつけました。

「これを食ってみせれば、信じてやろうか」

イメージ

上手く食べなければ口を切ってしまいますし、もし利良が刀を振れば、たちまち斬られてしまうでしょう。しかし、おかよは怯むことなくこれを平らげ「これが出雲人の誠です」と言ってのけます。

その態度に心を打たれた利良は、翌朝に予定していた大橋筑後守の切腹を取りやめに。やがて京都より帰国した松平定安に起請文を書かせ、松江の町から立ち去ったのでした。

「女がたった一人で横暴な鎮撫使を追い払い、藩と家老様を救ったぞ!」

この快挙に松江藩の人々は喜びましたが、これを妬む者もいたようで、やがて「女のくせに出しゃばって、とんでもない阿婆擦(あばずれ)だ」などと誹謗中傷が飛び交うように。

その女一人が出しゃばらなければ、今ごろ家老の切腹じゃすまなかったろうに、勝手なものです。

無念の内に父・玄丹も亡くなり、更には事実を捻じ曲げて「敵に身体を売った裏切り者」などとも噂され、すっかり婚期も逃してしまったのでした。

人気芸者として活躍したおかよ(イメージ)

仕方がないのでおかよは芸者となって座敷に上がると、蒲鉾の武勇伝が面白いと人気者に。どんな苦労も、あの時突きつけられた刀に比べれば何てこともない……たくましく生きたおかよは、大正7年(1918年)に77歳で天寿を全うします。

終わりに

そんなおかよの人生は人々の心を打ち、「玄丹おかよ」「鎮撫使さんとお加代」など多くの作品に描かれ、舞台でも演じられました。

また地元の松江では彼女の名誉を回復するため白潟公園(松江市)に胸像や顕彰碑が建立され、彼女の眠る光徳寺には誰が呼んだかお加代地蔵が祀られています。

※参考文献:

  • 日外アソシエーツ編集部『新撰 芸能人物事典 明治~平成』日外アソシエーツ、2010年11月

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