徳川家康(演:松本潤)と愛妻・瀬名(演:有村架純。築山殿)を中心に世界が回っているNHK大河ドラマ「どうする家康」。
彼ら夫婦には長男の松平信康(演:細田佳央太)・亀姫(演:當真あみ)という子供たちがいました。
※他にも側室・お葉(演:北香那。西郡局)との間に生まれた督姫(とくひめ)、同じく側室・お万(演:松井玲奈。於古茶)との間に生まれた於義伊丸(おぎいまる。後の結城秀康)がいますが、彼らは割愛です。
ときに、天正3年(1575年)時点で家康は33歳。家臣たちはいくつなのでしょうか。
- 酒井忠次(演:大森南朋)……大永7年(1527年)生まれ。49歳
- 本多忠勝(演:山田祐貴)……天文17年(1548年)生まれ。28歳
- 榊原康政(演:杉野遥亮)……天文17年(1548年)生まれ。28歳
- 井伊直政(演:板垣李光人)……永禄4年(1561年)生まれ。15歳
※ここまでが、いわゆる「徳川四天王」です。
- 大久保忠世(演:小手伸也)……天文元年(1532年)生まれ。44歳
- 石川数正(演:松重豊)……天文2年(1533年)生まれ。43歳
- 本多正信(演:松山ケンイチ)……天文7年(1538年)生まれ。38歳
- 鳥居元忠(演:音尾琢真)……天文8年(1539年)生まれ。37歳
- 渡辺守綱(演:木村昴)……天文11年(1542年)生まれ。34歳
- 平岩親吉(演:岡部大)……天文11年(1542年)生まれ。34歳
- 服部半蔵(演:山田孝之)……天文11年(1542年)生まれ。34歳
- 茶屋四郎次郎(演:中村勘九郎)……天文14年(1545年)生まれ。31歳
- 奥平信昌(演:白洲迅)……弘治元年(1555年)生まれ。21歳
※本多正信&茶屋四郎次郎はこの後も活躍予定なので入れています。奥平信昌は間もなく退場予定。
大河ドラマの主要人物を見ると、概ねアラサーからアラフォー(30~40代)が多い印象ですね。
いつまでも中高生みたいな軽g……もとい若々しい活躍ぶりですが、戦国時代の成人男性(概ね15歳以上)ならば、子供がいてもおかしくない年齢。実際のところ、彼らに子供はいなかったのでしょうか。
そこで今回は『寛政重脩諸家譜』より、本多忠勝の子供たちを紹介したいと思います。
本多忠勝の子供たち・娘5人
『寛政重脩諸家譜』によると、本多忠勝の子供たちは以下の通りでした。
- 女子(真田伊豆守信幸室。小松姫とも)
- 女子(奥平大膳大夫家昌室。もり姫とも)
- 本多忠政(ただまさ)
- 本多忠朝(ただとも)
- 女子(本多備中守信之室)
- 女子(松下三十郎重綱妻)
- 女子(蒲生瀬兵衛某妻)
女児5人に男児2人。ずいぶんと多いですね。ちなみに下の女児二人は庶子(正室以外の女性が産んだ子供)なので、本多家の家臣(陪臣)たちの「妻」として嫁いでいます。
※下から三番目の女子も庶子とする説もあり。本多一族のため「室」扱いになっているのでしょうか。
※なお正室は於久の方(阿知和右衛門玄鉄の娘)、側室は乙女の方(松下弥一の娘)と言われます。
ちなみに三番目に生まれた長男の本多忠政は天正3年(1575年)生まれなので、ちょうど長篠の戦い(5月21日。設楽原の戦い)前後ですね。
つまり第22回放送「設楽原の戦い」時点で忠勝は二人娘の父親でした。勝手な想像ですが、子煩悩だったのではないでしょうか。
戦場では鬼神のごとく暴れ回った忠勝が、家に帰ると妻や娘たちにデレデレしている光景を想像してしまいます。
娘たちについても、せっかくなので夫たちを軽く紹介しましょう。
- 真田信幸(さなだ のぶゆき)……武田遺臣で信州・上田藩主。
- 奥平家昌(おくだいら いえまさ)……奥平信昌の嫡男。宇津宮藩主。
- 本多信之(ほんだ のぶゆき)……本多家家臣。
- 松下重綱(まつした しげつな)……本多家家臣。
- 蒲生瀬兵衛(がもう せひょうゑ)……本多家家臣。
真田・奥平は共に重要な勢力ですから、つなぎとめておくために大事な娘を嫁がせたことが分かりますね。
また庶子とは言え、忠勝の娘を迎えられるとは、彼らも平素から厚く信頼されていたようです。
長女・小松姫のエピソード
スポンサーリンク
本多忠政・本多忠朝の父に劣らぬ武勇伝
それでは忠勝の息子たち、本多忠政と本多忠朝について紹介していきましょう。
【本多忠政】
本多忠政は天正3年(1575年)に誕生しました。通称は平八郎を父から襲名しています。
初陣は16歳となった天正18年(1590年)、小田原北条氏を討伐するため、父と共に武蔵国岩槻城攻めに参加しました。
大手門から攻め込んで敵将・妹尾下総守(いもお しもうさのかみ)を討ち取り、その武功によって羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)から太刀を褒美に授かっています。
その後も八王子城・築井城・鉢形城の攻略にも武勲を重ね、父に劣らぬ活躍ぶりを賞賛されました。
同じ年に家康の孫娘である熊姫(くまひめ。父は松平信康、母は五徳姫)を正室に迎えています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では上杉景勝(うえすぎ かげかつ)討伐に従軍、続いて徳川秀忠(ひでただ。家康嫡男)に従って信州上田城の真田昌幸(さなだ まさゆき)を攻めました。
しかしここで手こずってしまい、関ヶ原の決戦に間に合わない失態を犯してしまいます。
やがて慶長15年(1610年)に父の跡を継いだ忠政は、慶長19年(1614年)から同20年(1615年)にかけて行われた大坂冬の陣・夏の陣に参戦。ここで敵の首級253という武勲を上げたそうです。
そして寛永8年(1631年)8月10日に57歳で世を去ったのでした。
スポンサーリンク
【本多忠朝】
本多忠朝は天正10年(1582年)に誕生しました。本能寺の変で信長が横死し、家康が命からがら三河へ逃げ帰ってきた年ですね。
初陣は19歳の関ヶ原、こちらは父・忠勝と同じく決戦場にいたため、大いに槍を奮って活躍しました。島津義弘(しまづ よしひろ)の軍勢を相手に首級を二つ上げたと言います。
慶長19年(1614年)大坂冬の陣では、寒かったせいか酒を飲みすぎ、そのせいで敵に不覚をとってしまいました。
これを家康から責められた忠朝は、翌慶長20年(1615年)大坂夏の陣において汚名を返上。天王寺の戦いで先鋒を務め、毛利勝永(もうり かつなが)の軍勢を相手に壮絶な最期を遂げたそうです。享年34歳。
息絶え絶えの忠朝は「酒のせいで身を誤まる者を救いたい」と遺言、そのため没後に「酒封じの神様」として祀られたと言います。
スポンサーリンク
終わりに
以上、本多忠勝の子供たちについて紹介してきました。
おそらく劇中では全カットと思われますが、忠勝のみならず家臣それぞれに愛し養う家族がいたのです。
可愛い娘に鼻の下をのばしている平八郎。そんな心なごむワンシーンを、ちょっと見たいような気もしますが、果たして実現するでしょうか。
※参考文献:
- 高柳光寿ら編『新訂 完成重脩諸家譜 第11』平文社、1965年5月
スポンサーリンク
コメント