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切支丹の信仰に殉じた細川ガラシャ…ところで「ガラシャ」ってどういう意味?調べてみました【どうする家康?】

戦国時代
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明智光秀(あけち みつひで)の娘として生まれたばかりに謀叛人の娘として苦難の人生をたどった明智たま(玉、珠)。

細川忠興(ほそかわ ただおき)と結婚した後にキリスト教の信仰に目覚め、洗礼を受けて細川ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)と改名しました。こちらの方が有名ですね。

切支丹(キリシタン。キリスト教徒)として宗派の異なる夫としばしば対立し、ついに悲劇的な最期を遂げた彼女。ところでガラシャとはどういう意味なのでしょうか。

今回ちょっと調べてみたので、紹介したいと思います。

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苦難を耐え抜き、信仰に殉じた生涯

その前に、まず細川ガラシャの人生を駆け足でたどってみましょう(以下、分かりやすさのためガラシャで統一します)。

永禄6年(1563年)に誕生、母親は光秀の正室・妻木煕子(つまき ひろこ)と言われます。ちなみに夫の忠興も同年の生まれです。

16歳となった天正6年(1578年)に結婚。明智家と細川家という、当時の織田信長(おだ のぶなが)家臣団でも有力な両家の結びつきを祝福されたことでしょう。

しかし幸せな日々は長く続かず、20歳の天正10年(1582年)に父・光秀が信長に謀叛を起こしてしまいました。いわゆる本能寺の変です。

歌川芳虎「太平記屋間崎大合戦之図」より、敗走する明智光秀(武智日向守通秀)

行き当たりばったりに近かった光秀の挙兵。たちまち羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗れ、落ち武者狩りに遭って横死してしまいました。

これによってガラシャたちは謀叛人の一族として幽閉され、その後も各地を転々とする暮らしを余儀なくされます。

一方で夫の忠興は秀吉に忠誠を誓うため賤ヶ岳・小牧長久手・紀州征伐・九州征伐に従軍し、武功を重ねました。

そんな天正15年(1587年)に大坂の教会を訪れたガラシャはキリスト教に救いを求め、正式に切支丹となる洗礼を受けます。

後に長女おちょう(於長)、次女たら(多羅)も受洗しますが、忠次はこれに猛反対。当時は秀吉がバテレン追放令を出すなど、切支丹への弾圧が次第に厳しくなっていたから猶更です。

夫からの迫害に耐えかねて一時は離縁も考えたガラシャ。しかしキリスト教では離婚を禁じているため、何としてでも耐え抜かねばなりません。

やがて秀吉が亡くなり、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が勃発すると、忠興は徳川家康(とくがわ いえやす)率いる東軍として出陣。その際に留守の家臣たちに命じました。

細川忠興肖像

「もし敵がここを襲い、妻の名誉に危険が及んだ場合、真っ先に妻を殺せ」

忠興が出陣すると、間もなく石田三成(いしだ みつなり)率いる西軍の兵が細川屋敷を取り囲みます。
キリスト教では自殺も禁じられていたため、人質にされぬよう家老の小笠原秀清(おがさわら ひできよ)がガラシャを介錯したのでした。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

【意訳】散るべき時を心得ているからこそ、花は花として美しいし、人も人として美しく命をまっとうできるのだ……『細川家記』によれば、そんな辞世を詠んだと言われています。

そして遺体が残らぬよう、屋敷に爆薬を仕掛けて点火。すべてを吹っ飛ばす壮絶な最期でした。享年38歳。

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ガラシャとは「神の恩寵」の意味

以上、細川ガラシャの人生をたどってきました。

ところでガラシャとはどんな意味なのでしょうか。アルファベットで表記するとGraciaとなり、ラテン語では「神の恩寵」「天の恵み」などを意味すると言います。

このGraciaを日本人はガラシャと読んだのですが、より現地の発音(ローマ・バチカン式発音)に近づけるとグラツィアになるそうです。

何となくイタリア語のGrazie(グラッチェ)、スペイン語のGracias(グラシアス)に近いような気がします。これらはいずれも「ありがとう」の意味で、もしかしたら「神の恩寵に感謝する」気持ちに由来するのかも知れませんね。

人生何事も無駄はない。いかなる苦難にもすべて感謝……とはなかなかいかないものである(イメージ)

果たしてガラシャは、自分の運命を神より受けた恩寵として感謝できたのでしょうか。彼女は大層な美女だったと伝わりますが、もしかしたら数々の苦難こそが彼女を美しく磨き上げたのでしょうか。

細川ガラシャは大坂の崇禅寺(大阪市東淀川区)へ葬られ、ほか京都の高桐院(京都市北区)や肥後の泰勝寺(熊本県熊本市)など数か所に墓所があります。

また死後に秀林院殿華屋宗玉大姉(しゅうりんいんでんかおくそうぎょくだいし)の戒名をつけられましたが、ガラシャ当人は仏教徒扱いに不本意ではないのでしょうか(あの世では、もうそんなこだわりなど卒業したかも知れませんね)。

苦難の生涯をたどりながら、一途に信仰を貫いた細川ガラシャ。その生き方は、今も人々から愛されています。

※参考文献:

  • 笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女 日本女性史3』評論社、1973年1月
  • 米原正義 編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、2000年3月

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