かつて和睦の証として、次女のおふう(督姫。母親は西郡局)を北条氏直に嫁がせた「我らが神の君」徳川家康。
可愛い娘は嫁ぎ先で上手くやっているだろうか。心配だから、その内遊びに行っちゃおうかな……なんて思っていたら早四年。気づいて見れば、婿殿どころか御父上(北条氏政)にもちゃんと挨拶できていないではありませんか。
最近ようやく上方の方(豊臣秀吉とのゴタゴタ)も落ち着いたことだし、そろそろ一度ちゃんとご挨拶しておきたいな……と思ったとか。
という訳で、今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』より、徳川・北条両家の初対面エピソードを紹介。
果たして、両家の絆はしっかりと深まるのでしょうか。
黄瀬川を越える?どうする?
……北条氏直へ姫君住つかせ給ひしより四年になれども。いまだかの父子に対面し給はず。こたび氏政父子伊豆の三島まで詣るよし聞しめし及ばれ。御使もて会面せまほしき旨仰つかはされしに。氏政が方にも。さこそ存ずれ。但黄瀬川を越てこなたへわたらせ給ふやうあらまほしとの事なり。このとき酒井忠次等うけたまはりて。氏政がかくうつけたる答のまゝに。川をこして渡御ましまさば。世の人。 徳川殿は北条が旗下になりたりなどいひ傳へば。当家の名折此上なし。ひらに思召止らせ給へと諫めたり。 君名位の前後を争ふは詮なき事也。さきに信玄謙信の両人和議を結ばんとて。犀川を隔てゝ会面せしとき。謙信ははやりがなる性質ゆへ。信玄よりさきに下馬せしを。信玄はいまだ下馬せずして応接しかば。謙信大に怒り其場より鉄砲打出して合戦に及び。又十五年が間争戦やむときなし。其ひまに織田殿は上方に切て上り大国の主となり。我も織田に力を合せて一方に自立する事を得たり。この入道等とく和融して軍したらば。織田殿も我も一支も成がたきを。いらぬ争ひに年月を過したる中に。他人をして大功を立しめし事のうたてさよ。今氏政實心もて我に接するからは。我何ぞ其下にたつ事をいとはむ。天下一統の後にて。上につくとも下に立とも其おりに議すべけれ。今の位争は無用なりとて。遂に時日を定め三島におはして氏政父子に御対面ましませり……
※『東照宮御実紀附録』巻五「家康対面北条父子」
「徳川殿のお越しを、我ら一同大歓迎いたします。三島に会場を設けますので、どうか黄瀬川を越えておいで下さいませ」
北条氏政から返事が来たので、さっそく出かけようとした家康。しかしそれをしばしとどめて、筆頭家老の酒井忠次が言いました。
「黄瀬川を越えて、あちらの所領へ入ってはなりませぬ。世の人々が『徳川が北条の軍門に降った』と噂するでしょうから」
ふーん、そんなものなんでしょうか。家康は忠次に答えます。
「君子たる者、どっちが上位だ下位だと面子にこだわるべきではなかろう」
かつて甲斐の武田信玄と上杉謙信が犀川(千曲川)を挟んで対面した際、せっかちな謙信が先に下馬したのに、信玄はなかなか下馬しなかったと言います。それを怒った謙信が鉄砲を撃ちかけたことがキッカケとなり、15年間に及ぶ抗争が続いたのです。
そんなことをしている内に、織田信長がいち早く上洛を果たし、両雄は天下を逃してしまったのでした。もし甲斐の虎と越後の龍が力を合わせて上洛していれば、とても信長と家康は支えきれなかったでしょう。
今回こうして北条父子と面会するのは、共に力を合わせるため。どっちが上だの下だの、下らないことにこだわっては、その狭量をこそ笑われよう。
……こうして家康は氏政の申し出を快諾。果たして日時を決めて三島へと赴いたのでした。
何とまあ度量の大きなこと。さすが「我らが神の君」ですが、果たして北条父子はどう出てくるでしょうか。
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無礼な席順設定、それでも家康は怒らない
……そのとき氏政父子は上座に着れ。一族の陸奥守氏輝はじめ其次に座す。 君は氏政より下に着せられ酒井忠次。井伊直政。榊原康政ばかり陪座す。一通り献酬終りし後美濃守氏規進み出て。御宴進まさるうちに上方の軍議をなされんかといふ。 君上方の事はとくに定め置つれば今さら議するに及ばず。けふの対面はかたみにうちとけて。こゝらの宿念をもはらし。且はこの後無事ならん為なり。まづ両国の堺なる沼津の城をはじめ。城々みなとりこぼちて堺界なしにせんと思へば。もし上方に事あらば。我手勢五万のうち三万をひきゐて切て上らば何条事かあらん。又奥方に出馬し給ふ事もあらば。某先手うけたまはりて切靡け申さんに三年は過さまじ。とにかく親しううち語らはんこそ肝要なれと宣へば。氏政はじめいとおもひの外の事に思ひ。よろこぶ事限りなし……
※『東照宮御実紀附録』巻五「家康対面北条父子」
果たして当日。忠次の心配は残念ながら的中してしまったようです。会場では既に北条氏政が最上座につき、その次席には一族の北条氏輝(陸奥守氏照)が座っているではありませんか。
普通ならホストが次席について、ゲストを最上座に勧めるものですが、完全にナメ切っているようです。
(あやつら……!)
家康に同行していた忠次・井伊直政・榊原康政らは歯ぎしりする思いだったことでしょう。
(本当によいのですか!?)
(……構わぬ)
さぁ酒宴が始まりました。みんな盛り上がったところで、北条一族の美濃守氏規が、家康に話を切り出しました。
「こたび我ら北条一族と徳川殿が手を組むからには、上方へ攻め上がって天下をとることも叶いましょう。その計画について、徳川殿はいかがお考えか」
しかし家康は話をそらし、今日は両家の親睦を深めに来たばかりと答えます。
「両家が手をとり合う以上、両家の国境にある城などはみな不要にございます。さすれば、まずは沼津の城など当方の城を破却いたしましょう」
「ほう、そこまで我ら北条をご信頼下さるか」
「無論。もし上方から攻め込まれた折には、我が手勢5万のうち3万を率いて攻め上りましょう。片や奥州から攻め込まれた場合は、それがしが先鋒を承って3年以内に敵を平らげてご覧に入れよう」
西からも北からも北条を守って見せる……徹底して相手の懐に入る家康の姿勢に、氏政はじめ北条家の面々は、大いに喜んだのでした。
ここでも披露「海老すくい」
……かくて酒宴も闌(たけなわ)になりて。 君自然居士の曲舞をかなで給ひ。黄帝の臣に貨狄といへる士卒とうたはせ給へば。松田大導寺等同音に。徳川殿は当家の臣下になり給ひぬとはやしたつれば。氏政もゑつぼに入てきゝ居たり。酒井忠次は例の得手舞の海老すくひ。川いづれの辺にて候と舞出たれば。氏政太刀を忠次に引る。忠次又おしいたゞき小田原の老臣等にむかひ。我等は加様なる結構の海老をすくひあてゝ候と高らかにいひけり。忠次が歌のうちに鎌倉くだりといふ詞の有しを。小田原の山角上野介いまはしくやおもひけん。たむし尻うつたるを見さいな納りに熱田の宮上りと舞留ける。大導寺いひけるは。酒井殿は鎌倉下りなれば。山角は熱田の宮まで切り上り候ととりなして。主方も客人もをのをの興に入たり……
※『東照宮御実紀附録』巻五「家康対面北条父子」
かくして酒宴はますます盛り上がり、家康は曲舞(くせまい。幸若舞)の演目「自然居士(じねんこじ)」を披露しました。
♪~黄帝の臣に貨狄と言える士卒~♪
黄帝(こうてい)とは古代中国大陸における伝説の聖君、貨狄(かてき)とはその家臣で、共鼓とともに船を発明した人物と伝えられます。
演目中にそんな歌詞があったそうで、これを聞いた北条家臣の松田憲秀(尾張守)と大道寺政繁(駿河守)は口を揃えて囃し立てました。
「「徳川殿は当家の臣下となられた。これはめでたい!」」
その意(こころ)は分からぬものの、ともあれ氏政も上機嫌で笑い出します。
(おのれ、好き勝手ばかり言いおって……)
怒りを堪えながら、今度は忠次がいつもの“アレ”を演じました。そう、海老すくい踊りです。
♪~川いづれの辺にて候~♪
♪海~老す~くい川また、どっこらほどにそ~うもな~♪
相手に笑われるのは恥だ、相手を笑わせて差し上げるのだ……そんな忠次のひょうげぶりに矜持を覚えたのかどうか、氏政は褒美として太刀を忠次に授けました。
「有り難き仕合せ……方々、我らは立派な海老をすくい上げてござるぞ!」
得意げに宣言した忠次に対して、北条家臣の山角上野介(康定)がいちゃもんをつけます。
「歌詞の中に『鎌倉下り(※)』とござったが、それは我らが相模へ攻め込む魂胆か!」
(※)海老すくい踊りは、主人から「鎌倉で鎌倉海老(伊勢海老)を買って来い」と命じられた冠者(若い家臣)が舞うストーリーなので「鎌倉下り」という歌詞が出てくる。
♪~たむし尻うつたるを見さいな納りに熱田の宮上り~♪
【意訳】尻に白癬(たむし)のできてしまったので、平癒祈願で熱田神宮へお参りに。
それを聞いた徳川方はいきり立ちますが、大道寺政繁が上野介をなだめて言います。
「まぁまぁ。もし酒井殿が鎌倉へ攻め込むならば、そなたは熱田神宮まで攻め上がればよかろうて」
熱田神宮は尾張にあるので、その道中にある徳川領を通過せねばなりません。元よりお互いそんなつもりはないため、有耶無耶の内に収まったのでした。
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氏政の酔態、善美をつくしたおもてなし
……氏政ゑひすゝみて 君の御膝へよりかゝり。御指添をぬき取て。京兆には若かりしほどより。海道一の弓取とよばれし人なり。その刀を居ながら抜とりし氏政は大功なれと戯れける。此とき松田尾張守。 徳川殿にははや当家の臣下におはしませば。何の嫌忌かおはしまさんといふ。この日北条が御もてなし實に善美をつくせり……
※『東照宮御実紀附録』巻五「家康対面北条父子」
「あぁ~酔った酔ったぁ~」
すっかり酒が進んだのか、氏政が家康の膝に寄りかかってきました。おいやめろ、わしにそんな趣味はないぞ……家康が苦笑していると、氏政は家康の指添(さしぞえ。脇指)を引き抜きました。
「危ない!」
「やったぞ!海道一の弓取りと恐れられた京兆殿(左京大夫。ここでは家康を指す)の刀を抜き取った、わしの大手柄じゃ!」
まったくこの酔っ払いめ、無礼にも程があろう……さすがに武士として堪えがたいものを感じた家康たちに対して、松田尾張守が言います。
「徳川殿はもはや当家の臣下におわしますれば、主君のお戯れに角を立てることもございますまいて……」
完全にナメ切ってやがる北条家の態度……この日のもてなしは、実に善美を尽くしたものだったそうです(原文が皮肉を言っているのは、ご理解いただけますね?)。
沼津城を破却した家康。その心中は
……宴はてゝ後帰らせ給ふ。北条より山角紀伊守して御見送の役を勤めしむ。御かへさの道すがら沼津の外郭の塀及び櫓をみな毀撤せしめ。本丸ばかりを御旅館の設に残され紀伊守に見せしめ。こたび親会せし上は封境の険も無用なればかく取こぼちたり。この旨氏政父子によく傳へらるべしと仰含められしゆへ。小田原にもうしろやすくなり。いよいよ 当家を慕ひ隣交をこたらざりき。かゝりしかば世には。 徳川殿は小田原と結縁ありし上に。今度の会盟またいかなる事を議し給ふもはかりがたし。そのうへ軍法をも武田が流にかへ給ひしなど京にも聞えければ。豊臣家の上下。さきに彼方に降附せし石川数正が事を。古暦古箒と名付て用なきものゝ様におもひあざけりけるとなん。(駿河土産。校合雑記。)……
※『東照宮御実紀附録』巻五「家康毀沼津城外郭」
「あぁ、疲れた……」
誰のものともつかぬ溜息が聞こえる帰り道。北条家より山角紀伊守(定勝)が見送りにつけられました。
「よし。沼津の城郭を取り壊すように」
家康の命令に対して、家臣たちは驚きを隠せません。
「本当に壊してしまうのですか?」
「当たり前であろう。わしが、北条殿に対して嘘偽りを申す訳がなかろう」
本丸だけは政庁や宿泊施設として使うために残しておき、ほかの塀や櫓はことごとく壊させてしまいました。
「山角殿。お約束通り、沼津の城は取り壊した。他の城も同じく取り壊すゆえ、北条家に対して敵意のなき旨、お伝え下され」
「……ぎ、御意。然らば御免」
まさか本当に壊すとは思っていなかったのか、紀伊守はずいぶん驚いたことでしょう。
「……本当によかったのですか?」
駿府城へ戻る道中、家臣たちは家康に尋ねます。
「よい。あれらの城は、すべて守りにくい所ばかり。そこに兵力を分散しても各個に落とされて終わりじゃ。いざ北条と事を構える際は、防衛上有効な城に兵力を集中しておくことこそ肝要」
「そこまでお考えで」
「加えて、北条に対しては『徳川は口約束でも必ず守る』と信頼したことであろう。一方で、上方は『徳川が北条と組んだ』と思って我らの取り扱いを考えるはずじゃ」
……果たして家康の読みは的中し、上方の豊臣政権内では動揺が走ったと言います。
「徳川殿が小田原(北条氏)と接近しているそうじゃ。いったい何を企んでおるのやら……」
「近ごろは兵法を武田流に一新したと言うし、せっかく引き抜いた石川伯耆(数正)も用無しじゃな」
「まさに古暦(ふるごよみ)・古箒(ふるぼうき。箒≒伯耆守=数正)と言ったところか」
こうして家康は豊臣・北条双方の間に立って、絶妙な位置を保ったということです。
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「北条はじきに滅ぶな」家康の予言
……小田原よりかへらせ給ひし後。本多正信にむかはせられ。北条も世が末に成たり。やがて亡ぶべし。松田と陸奥守(北条氏輝)と二人の様にて知れりと宣ひ志が。果して後に敗亡のさま。松田の反覆はいふ迄もなし。陸奥守氏輝も氏政なくば氏直を軽視して。その国政をほしいまゝにせんかとの。御推考にたがはざりしとぞ。(紀伊国物語。)……
※『東照宮御実紀附録』巻五「家康予言北条衰亡」
「佐渡(本多正信)よ。北条はじきに滅ぶな」
「御意」
小田原(ここでは北条との宴会=三島)から駿府城へ帰った家康は、本多正信に愚痴をこぼしました。
「まったく、あの松田と陸奥守めは私欲のままに国政を壟断し、主君すら侮っているようじゃ」
「御家の滅亡は、家中の乱れより起こりますからな」
果たして家康の予言通り、天正18年(1590年)に北条氏政・氏直父子は滅ぼされてしまうのですが、それはもう少し先のお話し。
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、家康と氏政・氏直父子の対面がどのように描かれるのか、今から楽しみにしています!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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