時は紀元前660年。大和国橿原(奈良県橿原市)で皇位を践祚し、日本を建国した神武天皇。
2600年以上にわたる日本国の草創は、多くの家臣たちに支えられたものでした。
今回は神武天皇を支えた一人・宇摩志麻遅命(ウマシマヂノミコト)の生涯をたどってみたいと思います。
※以下、読みやすさのため敬称であるノミコト(命)は省略します。
伯父を殺して投降する
ウマシマヂは生年不詳、ニギハヤヒ(邇芸速日命、饒速日命)とトミヤヒメ(登美屋毘売)との間に誕生しました。
ウマシマヂという名前はウマシ(可美)マヂ(占卜)から成り、占術や呪術(まじない)を巧みにした事から名づけられたものと考えられます。
また文献によって『古事記』宇摩志麻遅命、『日本書紀』では可美真手命、『先代旧事本紀』においては味間見命ほか味嶋乳命などと表記されました。
はじめは母方の伯父であるナガスネヒコ(那賀須泥毘古、長髄彦)に従い、神武天皇に抵抗しましたが、やがて伯父を殺して投降します。
この時、ウマシマヂは何を思ったのでしょうか。日ごろから伯父と対立していたのか、あるいは伯父を殺さねば国民を守れないと考えたのかも知れません。
以来、神武天皇の忠臣として物部一族を率い、皇宮の守護に当たったのでした。
『旧事本紀』の記述によると、亡き父・ニギハヤヒが遺した天璽瑞宝(あまつしるしのみづだから)十種を神武天皇に献上。それを奉って皇室祖霊の鎮魂祭を執り行います。
これが日本で初めての鎮魂祭とも言われるそうです。
のちウマシマヂは足尼(すくね。宿禰)に任じられ、申食国大夫(おすくにのまえつきみ)となります。
また美濃国や越国(こしのくに。北陸地方)を平定し、石見国(島根県西部)で没しました。
※ただし越国については、アメノカグヤマ(天香山命)が平定したとも言われるそうです。
遺骸は物部神社の境内に埋葬され、今も人々を見守っています。
スポンサーリンク
ウマシマヂの子孫たち
ウマシマヂはシナガヒメ(師長姫)を妻に迎え、ヒコユキ(彦湯支命)とウマシニギタ(味饒田命)という子供たちを授かりました。
※師長国と言えば、現代でいう神奈川県西部。彼女はその辺りの出身だったのでしょうか。
彼らは後に物部(もののべ)氏や穂積(ほづみ)氏、采女(うねめ)氏の祖となり、今も多くの子孫たちが繁栄しています。
記紀神話には他にも多くの英雄が登場するので、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 宮地直一ら監修『神道大辞典 縮刷版』臨川書店、1986年4月
スポンサーリンク
コメント