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この女たらし!聖人君子で有名な仁徳天皇の浮気に苦しんだ皇后・磐之媛命の深すぎた愛情

日本神話
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日本の建国以来、トップクラスの聖人君子として知られる第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)

民が飢えに苦しんでいれば年貢を全額免除、民に寄り添って苦楽を共にしたり、民の暮らしを豊かにするため灌漑農業を盛んにしたりなど、その功績は今も日本人にとって「為政者の理想像」となっているのではないでしょうか。

民のかまどは にぎわいにけり……国民生活の向上を喜ぶ仁徳天皇。楊洲周延「東錦昼夜競 仁徳天皇」

そんな仁徳天皇ですが、女性関係は華やか?だったようで、皇后である磐之媛命(いわのひめのみこと)は嫉妬に苦しんだと言われています。

古事記(こじき)』や『日本書紀(にほんしょき)』では彼女が非常に嫉妬深い性格だった≒むしろ仁徳天皇の方が可哀想?だったかのように描かれていますが、実際のところはどうなんでしょうか。

今回はそんな磐之媛命について紹介したいと思います。

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盤石な地位と、不安定な浮気心

磐之媛命は生年不詳、葛城襲津彦(かつらぎの そつひこ)の娘として誕生。仁徳天皇2年(314年)にその皇后となり、日本史上で初めて民間から皇族入りしました。

ただし、磐之媛命の血筋は第8代・孝元天皇(こうげんてんのう)の玄孫(ひ孫の子。『日本書紀』では来孫=玄孫の子)となっています。

【略系図】
孝元天皇-彦太忍信命-(屋主忍男武雄心命)-武内宿禰-葛城襲津彦-磐之媛命

成婚当初、仁徳天皇との夫婦仲は円満で5人の息子を生み、うち3名が後に皇位を継承(第17代・履中天皇、第18代、反正天皇、第19代・允恭天皇)。まさに皇室の母と言えるでしょう。

第19代・允恭天皇。Wikipediaより

これだけ跡継ぎを産めば、皇后としての地位は安泰だったことでしょうが、不安定だったのは仁徳天皇の浮気心で、その相手として判明しているのは以下の通り(諸説あり)。

八田皇女(やたのひめみこ)
仁徳天皇の異母姉妹。磐之媛命の死後、皇后に立てられる

日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)
父・応神天皇(おうじんてんのう。第15代)から譲られた愛妾

桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)
『日本書紀』のみ登場する女官。磐之媛命の嫉妬が激しく、妃にできず

宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ)
『古事記』にのみ登場。仁徳天皇の異母姉妹

黒日売(くろひめ)
『古事記』にのみ登場。磐之媛命の嫉妬を恐れて逃げ帰った

神話の系図などを見ると、少なからず近親相姦が行われているなど性については実に大らかな時代だったと言えますが、磐之媛命にしてみれば、たとえ姉妹であっても油断ならないライバルに見えてしまい、気が気でなかったことでしょう。

足もあがかに嫉妬みたまひき……仁徳天皇の浮気が発覚

そんなライバルたちに心を惹かれてしまった仁徳天皇に対して、磐之媛命がどんな様子で嫉妬したかと言えば、

「石之日売命、甚(いと)多く嫉妬(ねた)みたまひき。故、天皇の使はせる妾(みめ)は、宮の中に得臨(えゆ)えず、言立てば、足もあがか(足掻か)に嫉妬みたまひき」

※『古事記』下巻、仁徳天皇条より

【意訳】磐之媛命は非常に嫉妬深かった、そのため、仁徳天皇がお気に入りの女性たちは恐ろしさのあまり宮殿に入ることが出来ず、もし連れ込んだのが発覚、あるいはことわりでも入れようものなら、地団太を踏んでヒステリーを起こした……。

なので仁徳天皇は仕方なく、女性を招き入れるのは磐之媛命が出かけて不在の時に限ったそうで、妻に隠れて自宅へ愛人を呼び寄せるのは、果たしてどんな気持ちだったのでしょうか。

(いつ妻が帰って来るかビクビクしながら女性に会って、そこまでして楽しいものなのでしょうか。正直ちょっと共感できません)

まぁそんなことをやっていれば、浮気が発覚するのも時間の問題で、案の定バレてしまいます。

八田皇女(イメージ)

時に仁徳天皇30年(342年)9月、八田皇女との関係を知ってしまった磐之媛命は、宴会に用いる器として集めていた御綱柏(みつながしわ)の葉をすべて投げ捨てて別居を決意。そのまま実家の葛城に帰ってしまったのでした。

妻に捨てられ、慌てふためく仁徳天皇

さぁ大変です。日ごろ浮気ざんまいに耽っておきながら、いざ妻がいなくなると慌てふためくのが男と言うものの性なのでしょうか。

「妻よ、戻ってきてくれー!」

磐之媛命を連れ戻すため、使者を遣わすも、そんな態度では帰って来てくれるはずもありません。

いつまで経っても帰って来ないので、仁徳天皇は重い腰を上げて磐之媛命を迎えに葛城まで行幸しますが、それでも説得に応じないので、痺れを切らして歌を詠んで贈りました。

都藝泥布 夜麻斯呂賣能 許久波母知 宇知斯意富泥 佐和佐和爾 那賀伊幣勢許曾 宇知和多須 夜賀波延那須 岐伊理麻韋久禮

【読み】つぎねふ やましろめの こくはもち うちしおほね(大根) さわさわに ながいへせこそ うちわたす やがはえなす きいりまゐくれ

【意訳】山代の女が木鍬(こくわ)を持って掘り起こし、泥を払った大根の葉っぱがざわつくように、汝(な=あなた)がブツブツ文句を言うので、あそこに茂っている木々のように大勢で迎えに来てあげたのだから、早く帰って来なさーい!

さわさわと葉をつけた大根。それにしてもムードに欠ける(イメージ)

……それが浮気を謝る態度か?と思ったのは磐之媛命も同じだったようで、やっぱり応じてくれないので、仁徳天皇は続けて歌を送ります。

都藝泥布 夜麻志呂賣能 許久波母知 宇知斯淤富泥 泥士漏能 斯漏多陀牟岐 麻迦受祁婆許曾 斯良受登母伊波米

【読み】つぎねふ やましろめの こくはもち うちしおほね ねじろの しろただむき まかずけばこそ しらずともいはめ

【意訳】(前略)大根のような白い私の腕を枕に愛し合ったことがないと言うのであれば、私を知らないと言っても=捨てても構わない(が、そんなことは言えまい)!

何だかんだと言っても、かつてはあれだけ愛し合った私たち二人ではないか……しかし情でほだそうとするなら、その絆を踏みにじったことをまず謝るべき……と思ったのはやはり磐之媛命も同じだったようで、交渉は相変わらず難航していました。

ようやるわ!こんな状況下でも浮気相手にラブレター

「うぅむ……」

梃子でも動きそうもない磐之媛命を前に悩んだ仁徳天皇でしたが、そんな中でも愛する八田皇女に対するラブレターは欠かしません(そういうとこですよ、そういうとこ)。

夜多能 比登母登須宜波 古母多受 多知迦阿禮那牟 阿多良須賀波良 許登袁許曾 須宜波良登伊波米 阿多良須賀志賣

【読み】やたの ひともとすげは こもたず たちかあれなむ あたらすがはら ことをこそ すげはらといはめ あたらすがしめ

【意訳】八田に一本生えている菅(すげ)は、実をつける(私との子を授かる)ことなく立ち枯れてしまうのだろうか。何ともったいない菅原(すがはら≒腹、母胎)よ。菅とは清々しい乙女すなわちあなたのことを言っているのですよ……。

うーん……セクハラと親父ギャグを取り混ぜたような歌ですが、そう思ったのは八田皇女も同じだったようで、彼女からはこんな返歌が贈られて来ました。

夜多能 比登母登須宜波 比登理袁理登母 意富岐彌斯 與斯登岐許佐婆 比登理袁理登母

【読み】やたの ひともとすげは ひとりをりとも おほきみし よしときこさば ひとりをりとも

【意訳】八田の一本菅(私のこと)は放っておいていただいて構いませんよ。大君、あなたがそれをお許しになるならば(=いいから放っておいて下さいな)。

とまぁ、正妻からも浮気相手からもそっけなくされながら月日は流れ、仁徳天皇35年(347年)6月、とうとう和解することなく磐之媛命は崩御されてしまったのでした。

エピローグ・あふれすぎる愛情の四首

「あぁ……」

最愛?の皇后を喪った仁徳天皇は大いに嘆き悲しみ、仁徳天皇37年(349年)に彼女を埋葬。明けて仁徳天皇38年(350年)にかねてよりお気に入りだった八田皇女を皇后に立てます。

一応、3年の喪は明けたということなのでしょうが、生前の振る舞いを考えると、もうちょっと反省した方が良かったのではないでしょうか……。

在りし日の磐之媛命(イメージ)

かくして嫉妬深い磐之媛命は世を去ったのですが、彼女の愛情深さを示す和歌が『萬葉集(まんようしゅう)』に四首収録されているので、こちらに紹介させていただきます。

秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らむ 朝霞 何処辺(いづへ)の方に わが恋ひ止まむ

【意訳】秋の稲田にかかる朝霞のように、どっちを向いても私の恋心がやむことはありません(あなたのいる方角を除いては)

ありつゝも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに

【意訳】ここであなたを待ち続けましょう。長く流れる私の黒髪が、白髪になるまで、ずっと(そして独り、朽ち果てていくのでしょうね)

かくばかり 恋ひつゝあらずは 高山の 磐根し枕(ま)きて 死なましものを

【意訳】あなたに振り向いてもらえない、こんな辛い運命と知っていたら、最初から山奥の冷たい岩を枕に独身でいたかった(かつてあなたのくれた温もりが、今となってはどれほど憎いことか!)

君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ

【意訳】あなたが行ってしまい、帰りを待ち焦がれる時間のなんと長いことでしょうか。どんな険しい山路も厭いはしない、こっちから迎えに行きましょうか、それとも信じて待ち続けましょうか……。

ここで言う君とは、もちろん仁徳天皇のこと。ここまで深く愛し抜かれたら男冥利に尽きるようにも思いますが、恐らく「怖!それが『重い』って言うんだよ!」などと反論したかったことでしょう。

いや、でも、やっぱりこんなにいじらしく愛情あふれる妻を持てたことを、仁徳天皇はやっぱり感謝しなければいけないのではないでしょうか。

※参考文献:

  • 家永三郎ら校注『日本書紀 (二)』岩波文庫、1994年10月
  • 角川書店 編『万葉集』角川ソフィア文庫、2001年11月
  • 中村啓信 訳『新版 古事記』角川学芸出版、2009年9月

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