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死者を辱めたその報いは…古代の武人・上毛野田道と蝦夷たちのエピソード

日本神話
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昔から「死人に口なし」などと言うように、死んだ者は基本的に何も言えないし、できません。

だからこそ「死ねば仏」として生前の悪行や怨恨については水に流し、それ以上の批判や攻撃は控えるのがマナーでした。

しかし、どうしても許せない相手に対して、死んだ後も墓を暴いたり、屍を鞭打つなど辱めたりなどする者もいました(現代でも「屍に鞭打つ」などの諺が伝わっています)が、そうした者の末路は往々にして悲惨なものとなっています。

上毛野田道。菊池容斎『前賢故実』より

今回は古代日本で活躍した武将・上毛野田道(かみつけのの たぢ)のエピソードを紹介。いったい、どんな末路をたどったのでしょうか。

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新羅征伐で大活躍

上毛野田道は生年不詳、大荒田別命(おおあらたわけのみこと)の子として仁徳天皇(にんとくてんのう。第16代)に仕え、親子ともども武勇をもって知られました。

時は仁徳天皇53年(365年)、朝鮮半島の新羅(しらぎ)国が大和朝廷に対する朝貢(ちょうこう。主従関係を示す貢物)を怠ったため、仁徳天皇は田道の兄・竹葉瀬(たかはせ。多奇波世)を問責の使者として新羅へ派遣しますが、誠意ある回答は得られません。

「代わりに道中、白い鹿を捕らえました。これはきっと吉兆と思い、陛下へ献上いたします」

白鹿(しらか)は新羅に通じるものか……果たして仁徳天皇は竹葉瀬と田道に兵を与え、二人は海を渡って新羅の軍勢を撃破。四つの村を滅ぼしてその住民を捕虜として連れ帰りました。

戦に臨む田道(イメージ)

その時の様子を、『日本書紀』ではこのように記しています。

(前略)みことのりしてのたまはく。もし新羅ふせがば、つはものをあげてこれをうつへし。よつて精兵(しらけのつはもの)をさづく、新羅兵(いくさ)をおこしてこれをふせぐ、こゝにしらぎ人日々にいどみたゝかふ。田道塞(そこ)をかためて出ず。時にしらぎの軍卒(いくさひと)一人営(いほり)のほかにいでたることあり。すはなちこれをとらへつ。よつてあるかたち(消息)をとふ。こたへてまうさく、ちからひと(強力)、はんべり。百衝(もゝつく)とまうす、かろく(捷)とし、たけ(猛)ていさ(韓)めり。つねにいくさの右のかたのさき(前陣)たり。故、これをうかゞひて、左をうたばやぶりなん、時にしらぎ左を空て右にそなふ。こゝに田道精騎(ときうまつはもの)をつらねてそのひだりのかたをうつ。新羅のいくさにげ(逃げ)あかれぬ。よて兵を縦(はなつ)て、これに乗て、百あまりの人をころす。すなはち四邑(村)のおほんたから(御宝≒人民)を、とりこにして、もてかへりぬ。

※『仮名日本書紀』巻十一「五十三年、新羅よりみつきたてまつらす。」より
※ちなみに、ここでは田道を「たみち」とフリガナしています。

【意訳】
(前略)仁徳天皇が詔(みことのり)して宣(のたま)うには「もし新羅の兵が抵抗するならば、これを討つべし。そのために精鋭を預ける」

果たして新羅は抵抗したため、戦争となった。出陣した田道は一人の新羅兵を捕らえて情報を引き出したところ「百衝という勇猛の将がおり、常に右翼の先鋒を務めているため、手強いでしょう」とのこと。

そこで田道は騎馬の精鋭(疾き馬兵)をもって敵の左翼を急襲、手薄だったために総崩れとなり、勝ち戦の勢いに乗じて100ばかりの敵を討ち取り、四つの村から人民を捕虜として連れ帰ったのであった……。

かくして新羅遠征で大勝利を収めた田道らは凱旋、その勇名を高めたのでしたが、その栄光は永く続きませんでした。

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蝦夷征伐で討死するが……

時に仁徳天皇55年(367年)、今度は蝦夷(えみし)が叛乱を起こし、田道が鎮圧に向かいますが、伊峙水門(いしのみと)と呼ばれる場所で討死してしまいました。

※この伊峙水門は上総国夷灊郡(現:千葉県夷隅郡)、あるいは陸奥国牡鹿郡石巻(現:宮城県石巻市)と考えられています。

「これを、我が妻に……」

田道は形見として従者に玉(ぎょく)を預け、命からがら生還した従者からそれを受け取った妻は、悲歎のあまり首を吊ってしまいました。

蝦夷たち(イメージ)、Wikipediaより

不幸なことは続くもので、敗戦の混乱で余裕がなかったためか、現地で葬られた田道の墓は蝦夷たちによって暴かれ、その亡骸は大いに辱しめられます。

「我らを苦しめ、多くの同胞を殺したにっくき敵ぞ、死んだからと言って許してなるものか!」

仇敵の亡骸を掘り起こしたら、どんな復讐をしてやろうか……さぞやワクワクしながら堀ったことでしょうが、土の中から出て来たのは一匹の大蛇(おろち)。

田道の怒りが化身となったのか、あるいは元から棲みついたのか、大蛇は蝦夷らに毒気(悪しき息)を吹きかけ、わずかに一人二人を残して蝦夷たちは全滅したそうです。

かくして田道は蝦夷らに一矢報い、蝦夷らも死者を辱めることを戒めるようになったと言われます。

エピローグ

その後、田道はその武勇と忠義から神として祀られるようになり、桓武天皇(かんむてんのう。第50代)の時代、蝦夷討伐に苦戦を強いられていた坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)の前に現れて勝利に導いたそうです。

田道の導きで勝利を収めた坂上田村麻呂。菊池容斎『前賢故実』より

延暦12年(793年)、御神恩に報いるため坂上田村麻呂は祠を建てて田道を祀り、大同2年(807年)には勅命によって社殿が造営、これが現在の猿賀神社(青森県平川市)として、今も人々に崇敬されています。

かつて朝鮮半島や東北地方に武勇を奮い、死してなお辱しめに一矢報いた上毛野田道。その子孫らも大いに武勲を立てたのですが、そちらの話しもまたいずれ。

※参考文献:

  • 植松安『仮名日本書紀 上巻』大同館書店、1920年6月
  • 工藤雅樹『蝦夷の古代史』吉川弘文館、2019年5月

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