皆さんは海幸山幸(うみさち やまさち)のお話しを聞いたことがあるでしょうか。
昔むかし、海での漁が得意な兄の海幸彦(うみさちひこ)と山での狩りが得意な弟の山幸彦(やまさちひこ)の兄弟がおり、ある日互いの道具を交換したところ、山幸彦が兄の釣り針をなくしてしまいます。
どんなに謝っても、代わりの釣り針を用意しても許してくれない海幸彦に困り果てた山幸彦は、海の神様である綿津見神(わたつみのかみ)の助けで釣り針を発見しました。
「お兄さんがまた意地悪をしてきたら、この宝玉で懲らしめなさい」
綿津見神から鹽盈珠(しおみつたま)・鹽乾珠(しおひるたま)を授かった山幸彦が海幸彦に釣り針を返すと、釣り針にかけられていた呪いで海幸彦は貧しくなり、怒り狂って山幸彦の元へ攻めて来ます。
そこで山幸彦は言いつけ通り鹽盈珠で大津波を起こして海幸彦を溺れさせ、充分に懲らしめたところで鹽乾珠を使って海水を引かせ、兄弟は仲直り(海幸彦が山幸彦に臣従)したのでした。
……話はもうちょっとどころではなく壮大に続いていくのですが、ともあれそんなことがあったと記紀神話(古事記と日本書紀)に伝えられています。
この山幸彦の孫が日本を建国した初代・神武天皇(じんむてんのう)で、日本人の約半分がその末裔と言われるほど栄えたのですが(ちなみにもう約半分が藤原氏)、海幸彦にも子孫がいました。
今回はそんな海幸彦の末裔である隼人(はやと)一族について紹介したいと思います。
隼人多く来たり、方物を貢ず……大和朝廷とのファーストコンタクト
隼人、と聞くと鹿児島県のたくましい男たちを指す「薩摩隼人(さつまはやと)」を連想する方も多いように、古代日本の薩摩・大隅(現:鹿児島県の西部と東部)を中心に勢力を築いていました。
「はやと」の語源は「吠える人(※)」、あるいは漢字の通り「ハヤブサのように勇敢な人」などと考えられており、現代にも通じる九州男児のイメージでしょうか。
(※)単なる獰猛さの表現か、あるいは彼らがトーテム(祖先としての崇拝対象動物)にしていた犬や狼に由来する説かも知れません。
隼人の名前が初めて歴史に登場するのは『日本書紀(にほんしょき)』より、天武11年(682年)7月3日。
「隼人多く来たり、方物を貢ず。是日、大隅隼人、阿多隼人と朝廷に相撲す。大隅隼人勝つ」
【意訳】隼人の者がたくさん来て、地方の名物を献上した。この日、大隅の隼人と阿多(あた。薩摩)の隼人が朝廷で相撲を取るパフォーマンスを見せ、大隅隼人の代表者が勝利した。
「お近づきの印に、こちらの名産品をどうぞ……」
この当時、薩摩・大隅地方の名物が何だったのか気になるところですが、とりあえずは大和朝廷と仲良くしようと貢物を持ってきてくれたようです。
そして相撲の取り組み。当時の相撲は現代とは違ってかなり荒っぽい、一種の格闘技でしたから、単に楽しんでもらうだけでなく、自分たちの勇猛さをアピールする目的もあったのでしょう。
こうして隼人と大和朝廷のファーストコンタクトは和やかに終始したようですが、その後もずっと円満だったかと言うと、必ずしもそうではなかったようです。
隼人の叛乱・1年以上にわたる果敢な抵抗
文武天皇3年(699年)、薩摩・肝属(きもつき)地方の隼人たちが肥後国(現:熊本県)に滞在していた大和朝廷からの覓国使(くにまぎのつかい、べっこくし。視察使節)を襲撃。
続く文武天皇4年(700年)にも、覓国使が九州南部の各地で隼人らから威嚇を受けたと言います。
これは大和朝廷による支配体制の強化に抵抗したもので、中央政権からの干渉を忌避し、独立心の強い九州人らしさが感じられますが、朝廷とすれば由々しき事態。
懸念が的中してしまったのか大宝2年(702年)に薩摩・多褹(たね。種子島、屋久島)の隼人が兵を結集して叛乱を起こしました。
これは同年、薩摩に律令制が布かれて薩摩国となった=大和朝廷による支配体制が確立したことに対する拒絶でしたが、大宰府(現:福岡県太宰府市)から派遣された軍勢によって鎮圧されてしまいます。
やがて和銅6年(713年)には大隅も大隅国が設置され、大和朝廷による隼人の支配圧力はますます強まっていったのでした。
「……もう我慢ならねぇ……野郎ども、旗上げだ!」
「「「おおおぅ……っ!」」」
圧政への不満が極限にまで達した養老4年(720年)2月29日、決起した隼人たちは大隅国守である陽候史麻呂(やこの ふひとまろ)を血祭りにあげます。
「何の隼人ごとき、此度もひと揉みに……」
朝廷は中納言であった大伴旅人(おおともの たびと)を征隼人持節大将軍に任命。副将として、授刀助の笠御室(かさの みむろ)と民部少輔の巨勢真人(こせの まひと)をつけ、一万以上の大軍を与えて追討に派遣しました。
これだけの陣容であれば、すぐに鎮圧できると思っていた朝廷当局でしたが、隼人の者たちは曽於乃石城(そおのいわき。現:鹿児島県曾於市)や比売之城(ひめのき。現:鹿児島県霧島市)に籠城するなど果敢に抵抗、戦さは一年以上の長きにわたります。
「者ども、怯むな……押せ、押せ!」
「……たとえ我らことごとく滅ぶとも、驕れる者どもに思い知らせてくれる……」
果たして養老5年(721年)7月7日、ついに旅人らは隼人の叛乱を鎮圧しました。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、斬首した者、捕虜合わせて1,400余りの戦果を挙げたと言いますが、朝廷側の被害については記述がなく、記すほどの被害が出なかったのか、あるいは記せないほど膨大な被害だったのかも知れません。
もし前者であれば鎮圧に一年以上の歳月を要することもなかったでしょうから、後者の可能性が高いと見られます。
エピローグ・神話に込められたメッセージ
これを最後に隼人の大規模叛乱は起こらなくなりましたが、その後も一定の軍事勢力を保ち続けました。
天平12年(740年)9月に起きた藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)の乱では戦さの趨勢を決する影響力を有したり、天平神護2年(766年)時点でも薩摩・大隅・日向(現:宮崎県)に柵戸(きのへ。砦および防壁)が置かれて=侵攻を警戒されていたりなど、緊迫していたようです。
しかし延暦19年(800年)に薩摩と大隅の両国に班田制が施行され、翌延暦20年(801年)には隼人の朝貢が停止され、正式に大和朝廷の臣民となっていったのでした。
かくして隼人の者たちは日本人と同化していきましたが、その後も兵部省(つわもののつかさ。軍政機関)に属する隼人司(はやひとのつかさ。軍事を担当した隼人らの部署)や、現代でもカッコいい男性名とされるなど、往時の名残を伝えています。
そして冒頭の神話は反骨精神が旺盛であった隼人たちを従わせるためのプロパガンダ(宣伝工作)であったとも言われ、
「海幸彦の子孫であるそなたたちは、山幸彦の子孫である皇室に従うべきなのだ」
というメッセージが込められているとか。真偽のほどはともかくとして、今はすべての日本人が心を一つに力を合わせ、皇室を奉戴していきたいものですね。
※参考文献:
- 大林太良『日本神話の起源』角川新書、1966年12月
- 中村明蔵『隼人の古代史』平凡社新書、2001年12月
- 山岸良二 監修『戦況図解 古代争乱』サンエイ新書、2020年2月
コメント