平安文学を代表する随筆の一つ『枕草子』の作者として知られる清少納言。
今回は彼女の兄弟である戒秀(かいしゅう)について、その生涯をたどってみたいと思います。
戒秀の生涯を駆け足で
戒秀は生年不詳、清原元輔の子として誕生しましたが、母親についてはよく分かっていません。
出家していることから、母親の身分は低かったものと考えられます。
戒秀の兄弟姉妹には清原為成(ためなり)・清原致信(むねのぶ)・清原正高(まさたか)・清少納言・女子(藤原理能室)らがいました。
また戒秀は僧侶でありながら妻帯していたらしく、一説には子供に定額(じょうがく。こちらも僧侶)がいたとも言われます。
元は比叡山延暦寺の僧侶でしたが、和歌の才能を見出されてか花山院(花山天皇)に抜擢され、殿上法師(内裏への昇殿を許された僧侶)となりました。
その和歌は後に『拾遺和歌集』『詞花和歌集』『続後撰和歌集』に一首ずつ再録されています。ほか『花山院歌合』にも和歌四首が採録されました。
花山院の側近として重用された戒秀は寛弘元年(1004年)、祇園社(現代の八坂神社)別当を務めます。
同年閏9月4日に花山院の使者として藤原道長を訪ねているそうですが、何を話し合ったのでしょうか。
『今昔物語集』によると、戒秀はとある受領の妻と密通していたらしく、それを返り討ちにされてしまったエピソードが伝わっています。僧侶なのに、煩悩多き人生だったのかも知れませんね。
そんな戒秀は長和4年(1015年)閏6月、雷に撃たれてしまいます。そして数日が経った閏6月12日に息絶えてしまったのでした。
恐らく単なる事故と思われますが、当時の人々は何かの天罰であろうと噂したのかも知れませんね。
戒秀・基本データ
生没:生年不詳~長和4年(1015年)閏6月12日没
両親:清原元輔/母親不詳
兄弟:清原為成、清原致信、戒秀、清原正高、清少納言、女子(藤原理能室)
妻妾:不明
愛人:受領某の妻?※『今昔物語集』
子女:定額?※『豊後清原系図』
職業:僧侶、歌人
役職:祇園社別当、殿上法師
死因:落雷
終わりに
春ごとに 心をそらに なすものは
雲ゐに見ゆる 櫻なりけり【意訳】毎年の春ごとに、私の心を上の空にするものは、雲の合間から見える桜の花々である。
【意訳】私は春になると、雲の合間に咲いているような桜の花々に心を奪われてしまう。
※『詞花和歌集』26番
たちこめる春の霞を雲居(くもゐ)にたとえ、その中で咲き誇る桜の美しさに心が上の空になってしまうのですね。どことなく「春はあけぼの……」に通じるセンスを感じます。
今回は清少納言の兄弟である戒秀について、その生涯をたどってきました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」本編には登場しないとおもいますが、清少納言にはこんな兄弟だいたんだな、と心の片隅に含んで頂けたら嬉しいです。
※参考文献:
- 岸上慎二『人物叢書 清少納言』吉川弘文館、1962年1月
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