令和7年(2025年)NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」には、主人公の蔦重(つたじゅう)こと蔦屋重三郎(横浜流星)を取り巻く様々な人物が登場します。
今回はそんな一人・佐野政言(さの まさこと)を紹介。矢本悠馬が演じるこの人物は、どのような生涯をたどるのでしょうか。
佐野政言プロフィール
佐野政言は宝暦7年(1757年)に旗本・佐野政豊(まさとよ。伝右衛門)の子として誕生しました。
元服して通称を善左衛門(ぜんざゑもん)と言います。
10人姉弟の末っ子で、9人は全員姉という構成ですから、生まれた時はさぞ喜ばれたことでしょう。
※男子が生まれないと家の跡取りがいなくて困る。当時はそんな価値観がありました。
佐野家は三河以来徳川家(松平家)に仕えた譜代の家柄で、佐野政之(まさゆき。五兵衛)をその初代とします。政言はその6代目です。
父の政豊は大番役(将軍警護の親衛隊)や江戸城西丸や本丸の新番役を務めてきました。
やがて安永2年(1773年)に父が致仕(引退)すると、政言が17歳で500石の家督を相続します。
安永6年(1777年)に21歳で大番役、翌安永7年(1778年)に22歳で新番役と歴任しました。
江戸城中で刃傷沙汰
順調な滑り出し(というより家柄相応)でしたが、やがてその前途にケチがつき始めます。
政言が27歳となった天明3年(1783年)、第10代将軍・徳川家治(いえはる)のお供で鷹狩に参加する栄誉を得ました。
ここで武功を立てれば、将軍のお目にとまって出世できるかも知れません。
(おとぎ話の少女に喩えれば、お城の舞踏会みたいなイメージでしょうか)
大はりきりで臨んだ政言は、雁(かり。ガン)1羽を射止める活躍を見せます。
これで褒美に与(あずか)れる……と思いきや、政言には何もありませんでした。
「何ゆえ!?」
……何ゆえなのかは結局分からなかったようですが、何か思うところがあったようです。
年が明けて天明4年(1784年)3月24日、江戸城中で刃傷沙汰に及びました。
「覚えがあろう!」「覚えがあろう!」「覚えがあろう!」
……政言に斬りつけられたのは、若年寄の田沼意知(おきとも)。かの田沼意次の嫡男です。
手にした一竿子忠綱の大脇差を血にぬらし、政言は取り押さえられました。
果たして意知は8日後の4月2日に絶命。翌4月3日に政言は切腹を命じられ、その生涯に幕を下ろします。享年28歳。
犯行動機とお家断絶
かくして若い生命を散らせた佐野政言。その犯行動機について、いまだ定説の決めてがありません。
一説には下野国(栃木県)の佐野家所領に鎮座する佐野大明神を田沼意知の家来か横取り。あろうことか田沼大明神に改名してしまった恨みと言います。
あるいは田沼家へ賄賂を贈ったにも関わらず昇進できなかったこと、それとも先の鷹狩で何かあったのかも知れません。
結局よく分からなかったため、幕府当局は単なる乱心として処理したのでした。
政言の葬儀は4月5日に執り行われましたが、両親はじめ佐野家の遺族は謹慎を命じられていたことから、参列は叶いません。
妻(村上義礼妹)はいても子供はなく、遺産は父の政豊が相続しました。しかし改易(知行を全没収)されたため、佐野家は断絶してしまったのです。
政言の法名は元良印釈以貞(がんりょういんしゃくいてい)。墓所は徳本寺(東京都台東区西浅草)にあり、今も人々を見守っています。
世直し大明神、田沼政権に天罰てきめん?
そんな悲しい最期を遂げた佐野政言ですが、彼は同情と賞賛をもって「世直し大明神」と呼ばれました。
当時は田沼政権に対する不満が高まっており、権力の中枢にあった田沼意知の暗殺に人々は溜飲を下げたのです。
嫡男を喪った田沼意次はやがて失脚、人々は世直し大明神のあらたかな霊験に喝采を送ったのでしょうか。
のち寛政元年(1789年)に暗殺事件を題材にした黄表紙『黒白水鏡(文:石部琴好/画:北尾政演)』が出版。好評を博したそうですが、当局はこれを厳しく弾圧しました。
版元と絵師が手鎖と過料、そして江戸払い(追放刑)に処せられたそうですから、よほど社会的影響が大きかったのでしょう。
終わりに
今回は田沼意知を暗殺した佐野政言について、その生涯をたどってきました。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」では、矢本悠馬がどのように演じてくれるのでしょうか。今から楽しみにしています!
※参考文献:
- 稲垣史生『とっておき江戸おもしろ史談 : 将軍・大名・武士・町人…こぼれ話』KKベストセラーズ、1993年7月
- 明田鉄男『近世事件史年表』雄山閣出版、1993年1月
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