男好きで知られた平賀源内(安田顕)。その想い人であった二代目・瀬川菊之丞(花柳寿楽)とは、果たしてどんな人物だったのでしょうか。
今回は二代目・瀬川菊之丞(せがわ きくのじょう)について、その生涯をたどってみたいと思います。
※以下、代数を冠さない場合は基本的に二代目瀬川菊之丞を指しています。
若くして若女形の筆頭に
瀬川菊之丞は寛保元年(1741年)、武蔵国王子(東京都北区)の富農・清水半六(しみず はんろく)の倅として誕生しました。
初名は清水徳治(とくじ)。5歳となった延享2年(1745年)に初代・瀬川菊之丞へ養子入り。瀬川権次郎(ごんじろう)を名乗ります。
寛延3年(1750年)に10歳で二代目・瀬川吉次(きちじ)を襲名、中村座で初舞台を演じました。
初舞台は「石橋(しゃっきょう)」、養父の初代・瀬川菊之丞が亡くなった一周忌追善公演だったそうです。
16歳となった宝暦6年(1756年)には市村座の顔見世で、亡き養父の演じた「百千鳥娘道成寺(ももちどり むすめどうじょうじ)」を披露。二代目・瀬川菊之丞を襲名しました。
容姿と芸技のともにすぐれており、宝暦7年(1757年)には若女形(わかおやま)の筆頭となります。
現代でも人気の演目となっている「鷺娘(さぎむすめ)」の初演でも知られており、その優美な振付が人々を魅了したことでしょう。
(※ただし当初の振付は絶えており、現代のものとは異なります)
絶大な人気を誇るも……。
そんな瀬川菊之丞は俳人としても知られており、俳号は路考(ろこう)。道端で一句ひねっていたのでしょうか。
出身地の王子と合わせて王子路考と呼ばれ、路考髷(まげ)、路考茶(飲み物でなく色)、路考櫛(くし)など、様々なものに路考の名がつけられました。
その多くは単なるあやかりと思われ、何でも路考とつければ商品が売れたのでしょう。よほどの人気がうかがわれますね。
しかし安永2年(1773年)閏3月13日、瀬川菊之丞は33歳の若さで世を去ってしまいました。
源内先生はもちろんのこと、多くのファンが早すぎる死を惜しんだことでしょう。
二代目瀬川菊之丞・略年表
- 寛保元年(1741年) 誕生、初名清水徳治(1歳)
- 延享2年(1745年) 初代・瀬川菊之丞に養子入り、瀬川権次郎と改名(5歳)
- 寛延2年(1749年) 養父が亡くなる(9歳)
- 寛延3年(1750年) 二代目・瀬川吉次を襲名、初舞台(10歳)
- 宝暦6年(1756年) 二代目・瀬川菊之丞を襲名(16歳)
- 宝暦7年(1757年) 若女形の筆頭となる(17歳)
- 時期不詳 平賀源内と恋仲となる
- 安永2年(1773年)閏3月13日 亡くなる(享年33歳)
二代目瀬川菊之丞・基本データ
- 生没年:寛保元年(1741年)生~安永2年(1773年)閏3月13日没
- 出身地:武蔵国王子(東京都北区)
- 両親:実父・清水半六/実母不詳
- 養父:初代・瀬川菊之丞
- 改名:清水徳治⇒瀬川権次郎⇒瀬川吉次(二代目)⇒瀬川菊之丞(二代目)
- 屋号:濱村屋(はまむらや)
- 定紋:丸に結綿(ゆいわた)
- 俳号:路考、王子路考
- 伴侶:不明
- 子女:不明
- 恋人:平賀源内
- 主な演目:
『石橋』(初舞台)
『百千鳥娘道成寺』(菊之丞襲名)
『鷺娘』(創始)など
終わりに
今回は平賀源内の恋人として知られた二代目・瀬川菊之丞について、その生涯をたどってきました。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では花柳寿楽が源内先生との儚い絆を舞い描き、視聴者の胸を打ったことでしょう。
男色(同性愛)と聞いて、思わず引いてしまった方もいるかも知れません。しかし人を好きになることが、時に性別を超えることも間々あるものです。
一度きりの登場でしたが、本作では他にも歌舞伎役者が活躍することでしょう。
※参考文献:
- 野島寿三郎 編『新訂増補 歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ、2002年6月
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