俗に「犬は三日飼われた恩を一生忘れない。猫はどんな恩義も三日で忘れる」などと言われます。
注いだ愛情に全身全霊で応えてくれる犬に対して、猫は「奉仕させてやる」とばかりの気まぐれぶり。
「だが、それ(こそ)がいい」と言う方も少なからずいるため、今日まで犬派と猫派の争いが絶えない?のでした。
しかし猫の中には可愛がられた恩義を忘れない者もいるようで、今回は江戸時代、吉原遊廓で飼われていた玉(たま)のエピソードを紹介したいと思います。
三浦屋の遊女・薄雲が溺愛

京町の猫通ひけり揚屋町と宝晋斎が秀逸は其頃三浦の抱へなる薄雲と云遊女が情質とて猫を愛玩し部屋に有る日は膝にをき客を迎へる道中にも人に抱かせ自ら抱へ暫しも側へを放さねば全盛双びなき身にもねこのみいりしものにやと人々さゝやきあひけるをいつか三浦屋の耳に入異見を加へ愛猫を遠ざけたりしに其日より病と称して薄雲はたれこめてのみありしかば千金をもて抱へたる身に曲事あらせじと再び猫をかへしあたえ心のまゝにゆるせしかば其日よりして薄雲の病もいえて客を迎へり人の嗜欲の止めがたき杜預に左伝の癖ある類か此猫主の恩を感じ命を捨て薄雲が難を救ひ萬が犬におとらざる忠を尽せし一奇談は恩に報ふに仇をもてす人の面きた化猫を戒めんとて作りたる勧善者流の寓言なるべし
※月岡芳年「古今比売鑑 薄雲」
【意訳】宝晋斎(宝井其角)が「京町(きょうまち)の 猫通いけり 揚屋町(あげやちょう)」と詠んだのは、そのころ三浦屋(みうらや)で抱えられていた薄雲(うすぐも)という遊女についてである。
薄雲は大の猫好きで、部屋にいればいつでも膝に猫を抱えていた。客を迎えに行く太夫道中(後の花魁道中)でさえ、猫を付人に抱えさせるほどだったと言う。
まさに片時も猫と離れたがらなかった薄雲の様子に、人々は「よもや猫に魅入られて(とり憑かれて)しまったのではないか」と噂するようになった。
その噂を聞いた三浦屋の主人は、売れっ子遊女に万一の事があってはならないと恐れ、薄雲を叱りつけて強引に愛猫を引き離す。
すると薄雲はたちまち元気をなくし、重病に臥せってしまった。このままでは死んでしまうかも知れない……悩んだ末に三浦屋は薄雲に猫を返した。
猫との再会を果たした薄雲はあっという間に元気を取り戻し、何ならその日の晩から再び客をとるほどに回復したそうな。
人の愛欲は止めがたいもので、それはかつて杜預(と よ。字は元凱)が『左伝』を肌身離さず愛読した逸話にも通じる。
薄雲の愛猫は彼女から受けた愛情に報いようと、主人の生命を救った。この忠義はどんな犬にも劣らないものと言えよう。
この奇談は人の面をした化け猫(恩に仇で報いる人でなし)どもの戒めるため、後世に伝えられた勧善者流の寓話である。
……という事でした。
これは猫の恩返しというか、単に薄雲がいかに玉を溺愛していたか、という話にも思えますね。
しかし玉が薄雲の生命を救ったのかと言われると、正直微妙なところでは無いでしょうか。
そんな薄雲のプロフィール

薄雲は信州埴科郡鼠宿(はにしなごおり ねずみじゅく。長野県埴科郡坂城町)に住む玉井清左衛門(たまい せいざゑもん)の娘で、実名を玉井てると言いました。
猫好きが鼠宿の出身というのは、何だか興味深いですね。
愛猫の玉は、実家の玉井から名づけたのでしょうか。薄雲が玉を飼うことになった経緯も知りたいところです。
吉原遊女として三浦屋四郎左衛門(しろうざゑもん。京町一丁目)の抱えとなり、その器量で太夫(たゆう。最高位の遊女、後の花魁)に上り詰めました。
薄雲という源氏名については『源氏物語』の薄雲から採っているという説とそうでない説があるようですが、果たしてどちらなのでしょうか。
元禄年間(1688~1704)に活躍し、勝山太夫や高尾太夫と並び称せられるほどの名妓となりました。
そんな薄雲太夫を周りが放っておくはずもなく、元禄13年(1700年)に350両で身請けされたということです。
1両の価値は時代や比較対象によって異なるため、一概には言えません。仮に1両が約10万円とすれば、おおむね3,500万円程でしょうか。
身請けされた後の薄雲について、詳しいことは分かっていません。
どうか幸せに生涯をまっとうして欲しいものですね。
終わりに

今回は薄雲太夫の猫好きエピソードを紹介してきました。
吉原遊廓だけでなく江戸の街でも猫は愛され、人々と暮らしを共にしていたことでしょう。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でも忘八連中が自慢の猫を可愛がっている場面があったので、再登場に期待しています。
果たして猫は恩を返すのか……皆さんのところは、どうでしょうか?
※参考文献:
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