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【歴人録】甲斐の虎・武田信玄(武田晴信)とは?【戦国時代】

戦国時代
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はじめに(参照上の注意)

このコーナーでは調べもの等の参考になるよう、史料や文献に基づいてデータをまとめていきます(随時更新)。

史料によって記述が異なる点も原文のまま記載していくことが多いため、あくまで「この文献によると」という意味でご理解ください。

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【武田信玄・略伝】

月岡芳年「芳年武者无類 武田大膳大夫晴信入道信玄」

甲斐国(山梨県)を代表する戦国大名。

若くして父・武田信虎(のぶとら)を追放し、勢力を信濃国(長野県)・駿河国(静岡県東部)などに拡大した。

その強さから「甲斐の虎」と恐れられ、「越後の龍」上杉謙信(うえすぎ けんしん)は終生のライバルとして川中島では5度にわたり雌雄を争う。

数々の闘いで勝利を収める一方、治水事業や分国法の整備など内政にも力を入れた地元の英雄として、現代でも山梨県人に愛され続けている。

【武田信玄・基本データ】

武田の家紋・花菱。鋭角的な武田菱も有名

生没:大永元年(1521年)11月3日生~元亀4年(1573年)4月12日没

出身:甲斐国(現:山梨県)

家紋:武田菱、花菱

幼名:勝千代

通称:太郎

別名:晴信(俗名)・信玄(法号)

仇名:甲斐の虎

戒名:法性院機山徳栄軒信玄

官位:大膳大夫・信濃守(官職)従四位下(位階)

幕府:室町幕府(足利幕府)・甲斐国守護職、信濃国守護職

両親:父・武田信虎/母・大井の方

兄弟:武田竹松、武田信玄(本人)、武田犬千代、武田信繁、武田信基、武田信廉、武田信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、武田信友、武田勝虎、定恵院(女性)、南松院殿(女性)、禰々(女性)、花光院(女性)、亀御料人(女性)、下条信氏室(女性)、禰津常安室(女性)、葛山氏室(女性)、菊御料人(女性)

妻妾:上杉夫人(正室)、三条夫人(継室)、諏訪御料人(側室)、禰津御料人(側室)、油川夫人(側室)、ほか

子女:武田義信、海野信親、武田信之、黄梅院(女性)、見性院(女性)、武田勝頼、真理姫、仁科盛信、葛山信貞、武田信清、松姫、菊姫、織田勝長(養子)など

【武田氏略系図】

武田信義-武田信光-武田信政-武田信時-武田時綱-武田信宗-武田信武-武田信成-武田信春-武田信満-武田信重-武田信守-武田信昌-武田信縄-武田信虎-武田晴信……
※『系図纂要』より

【武田信玄・略年表】

歌川芳虎「天文二十三年八月十八日武田上杉川中島大合戦図」

※史料により諸説あり。

大永元年(1521年) 誕生(1歳)

天文5年(1536年) 元服して晴信と改名、初陣(16歳)

天文10年(1541年) 父・信虎を追放して家督を継ぐ(21歳)

天文11年(1542年) このころから信濃国へ進攻(22歳)

天文16年(1547年) 分国法「甲州法度之次第」を定める(27歳)

天文17年(1548年) 信濃国の強敵・村上義清に敗れる(上田原の合戦、28歳)

天文19年(1550年) 村上義清に再び敗れる(砥石崩れ、30歳)

天文20年(1551年) 調略で砥石城を攻略、村上義清に反撃開始(31歳)

天文22年(1553年) 村上義清を追い出し、信濃国をほぼ平定する(33歳)
同年 越後国の雄・上杉謙信と武力衝突(第一次川中島の合戦)

天文23年(1554年) 駿河国の今川義元・相模国の北条氏康と同盟(34歳)

天文24年(1555年) 第二次川中島の合戦。今川義元の仲介で撤退(35歳)

弘治3年(1557年) 第三次川中島の合戦。足利義輝の仲介により撤退(37歳)

永禄2年(1559年) 出家して信玄と号する(39歳)

永禄4年(1561年) 第四次川中島の合戦。武田・上杉最大の激戦(41歳)

永禄7年(1564年) 第五次川中島の合戦。にらみ合いで終わる(44歳)

永禄10年(1567年) 今川氏と対立、親今川派の長男・義信を廃嫡(47歳)

永禄11年(1568年) 徳川家康と共に駿河へ侵攻、北条氏とも対立(48歳)

永禄12年(1569年) 上杉謙信と和睦、駿河国を征圧(49歳)

元亀2年(1571年) 比叡山焼討から亡命してきた覚恕法親王を保護、権僧正に(51歳)

元亀3年(1572年) 将軍・足利義昭の求めに応じ織田信長討伐の上洛開始(52歳)
同年 三方ヶ原の合戦で徳川家康を撃破する

元亀4年(1573年) 病状の悪化により撤退途上、病没する(53歳)

『系図纂要』に記された武田晴信

歌川国芳「本朝武優鑑 武田信玄」

晴信

母 瑞雲院心月珠宗 大井上野介信達女
勝千代 大永元年三ノ廿八生 天文五年三ノ五元服義晴之晴一字従五下大膳大夫兼信乃守
同十年六ノ■ 従四下 同廿年二ノ十二剃髪入道号徳栄軒信玄 永禄九年正ノ十三大僧正
天正元年四ノ十二卒 五十三 法性院機山信玄

※■は判読不能。手書き文字のため、誤読の可能性も否定できません。あくまでご参考に願います。

※飯田忠彦『系図纂要 清和源氏 十六 武田 穴山 黒川 郡山 三日市 五島 松前』国立公文書館デジタルアーカイブ

【意訳】母は瑞雲院殿心月珠宗。大井上野介信達(おおい こうずけのすけ のぶさと)の娘。

幼名は勝千代、大永元年(1521年)3月28日生まれ。天文5年(1536年)3月5日に元服、時の室町将軍・足利義晴(あしかが よしはる)から晴の偏諱(へんき。名前の一文字)を賜って晴信と改名。この時に従五位下の位と大膳大夫・信濃守の官職を授かった。

天文10年(1541年)に従四位下へ昇進、天文20年(1551年)に出家して徳栄軒信玄(とくえいけん しんげん)と号する。永禄9年(1566年)に大僧正となる。

天正元年(1573年。元亀4年)4月12日、53歳で世を去った。戒名は法性院機山信玄。

※史料によって日付にズレが見られるものの、原文からそのまま意訳しています。

参考資料

  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』角川書店、2006年11月
  • 平山優『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』PHP新書、2021年9月
  • 平山優『図説 武田信玄』戎光祥出版、2022年2月

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