百姓の小倅から天下人にまで昇り詰めた豊臣秀吉(羽柴筑前守・木下藤吉郎)は、日本史上における空前絶後の快挙を成し遂げたと言えるでしょう。
しかしその道のりは決して平坦ではなく、数々の苦難が待ち構えていたのは言うまでもありません。
今回はその中でも特に秀吉が窮地に陥った、いわゆる三大危機について紹介したいと思います。
豊臣秀吉の三大危機とは

特に定説がある訳ではないようですが、以下の3件を挙げるのが一般的ではないでしょうか。
- 金ヶ崎の退口(かねがさきののきぐち)
- 手取川の合戦(てどりがわ)
- 中国大返し(ちゅうごくおおがえし)
※諸説あり
それぞれどのような窮地に陥り、切り抜けたのか、見ていきたいと思います。
三大危機その一「金ヶ崎の退口」とは|討死の危機

- いつ:元亀元年(1570年)4月
- どこ:越前国(福井県)
- 交戦:朝倉義景
- 危機:浅井長政の裏切りで退路を断たれる
- 対策:殿軍を務めて逃げ帰った
主君の織田信長が越前の朝倉義景を攻めた時、盟友であった北近江の浅井長政が突如裏切り、背後を突いてきました。
信長は秀吉に殿軍(しんがり)を命じ、一目散に逃げ帰ります。
取り残された秀吉は多大な損害を出しながらも命からがら生還し、織田家中において武名を高めました。
三大危機そのニ「手取川の合戦」とは|切腹の危機

- いつ:天正5年(1577年)8〜9月
- どこ:加賀国(石川県)
- 交戦:上杉謙信
- 危機:任務放棄して信長の逆鱗に触れる
- 対策:謹慎の後に赦された
能登国の長続連(ちょう つぐつら)を救援するため、秀吉は柴田勝家の指揮下について出陣します。
しかし陣中で勝家と喧嘩した秀吉は、軍勢をまとめて勝手に引き揚げてしまったのです。
これを知った信長は激怒して秀吉に謹慎を命じました。一歩進退を誤れば切腹もあり得る窮地に陥ったものの、秀吉は程なく赦されて戦列に復帰します。
秀吉が勝家と喧嘩した理由や、信長が秀吉を赦した理由について、詳しいことはわかっていません。
なお秀吉が引き揚げた後、勝家らは上杉謙信の急襲により大敗を喫することになります。
三大危機その三「中国大返し」とは

- いつ:天正10年(1582年)6月
- どこ:備中国(岡山県)
- 交戦:清水宗治
- 危機:本能寺の変を知り、急いで退却
- 対策:一か八かの賭けに出た
中国攻めの陣頭指揮をとっていた秀吉は、清水宗治が守る備中高松城を包囲中に、本能寺の変(明智光秀が謀叛して信長が横死)を知りました。
すぐにも仇討ちに駆けつけたいところですが、うかつに退けば敵に背後を突かれてしまいます。加えて、もしも信長横死が偽情報だった場合、戦線放棄で今度こそ切腹かも知れません。
しかし秀吉は一か八かの賭けに出ました。清水宗治の切腹と引き換えに毛利氏と和睦し、大急ぎで京都へ引き返したのです。
これが奏功して明智光秀を素早く討ち取った秀吉は、織田政権における主導権を確立していくのでした。
秀吉の三大危機まとめ

- 金ヶ崎の退口:敵に退路を断たれ、討死の危機
- 手取川の合戦:任務放棄で逆鱗に触れ、切腹の危機
- 中国大返し:信長の死で織田政権崩壊の危機
今回は秀吉の三大危機について、わかりやすく紹介してきました。もし秀吉の素早い決断・仇討ちがなければ、織田政権はまとまりを欠き、最悪の場合は空中分解していたかもしれません。
そのために「本能寺は秀吉があらかじめ仕組んだ陰謀」という説もあるようですが、果たして真相はどうだったのでしょうか。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では既に金ヶ崎の退口が描かれており、他の危機についてもどのように描かれるのか、注目しています。
※参考文献:
- 市川俊介ら編『別冊歴史読本 豊臣秀吉合戦総覧』新人物往来社、1996年8月
- 谷口克広『織田信長合戦全録』中公新書、2002年1月
- 乃至政彦『謙信×信長 手取川の真実』PHP新書、2023年5月

