時は天正11年(1583年)4月24日、越前北ノ庄城(きたのしょう。福井県福井市)の天守閣において、柴田勝家らは最期の時を迎えようとしていました。
果たして勝家とその妻・お市の方はどのような最期を遂げたのでしょうか。今回はお市の方や勝家主従の最期を紹介したいと思います。
自害そして爆死

寅刻(午前4:00ごろ)、北ノ庄城のほぼ全域を制圧した羽柴秀吉の軍勢は、最後に残された本丸へと攻め懸かりました。
柴田方もここが死に場所と抵抗しますが、正午には突破・制圧されてしまいます。いよいよ残るは天守閣のみです。
天守閣の中には勝家はじめ200名余りが立て籠もっており、一気に攻め滅ぼせなくもありません。しかし狭い場所へ大勢で乱入するとこちらの被害も大きくなるため、選抜した者だけで斬り込ませました。
勝家らは歴戦の勇士として意地を見せ、7度まで斬り合いましたが、いかんせん疲労のため押し込まれてしまいます。
いよいよ天守閣の最上階まで追い詰められた勝家は、大音声で叫びました。
「修理(勝家)の腹の切り様を見て後学にせよ」
ついに覚悟を決めたと知って、柴田勢の者は涙を流して鎧の袖を濡らし、羽柴勢の者は攻撃の手を緩めます。武士の情けとして、死ぬ時くらいは静かに見送ろうと思ったのでしょう。
日付が変わって寅下刻(午前5:00ごろ)、勝家はお市の方をはじめその場にいた妻子を一思いに刺し殺し、腹を十文字に切って果てました。
介錯は重臣の中村文荷斎(もんかさい。聞荷斎)が行い、80余名の家臣たちが勝家に殉死(後追い自害)します。そして文荷斎は用意しておいた火薬に火を放ち、天守閣を爆破したのでした。
ここに織田家家老として信長の覇業を支え続け、その死後も織田家を守り抜こうと戦い抜いた柴田勝家の一族は滅亡したということです。
勝家とお市の辞世

かくして自害した柴田勝家とお市の方。二人が詠み交わした辞世の句を一緒に見てみましょう。
お市の方(小谷御方)
さらぬたに うちぬる程も 夏の夜の 別をさそふ ほとゝきすかな
【歌意】ただでさえ夏の夜は短いのに、ホトトギスが早く別れろとせっつくように啼くのですね。柴田勝家
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあけよ 山時鳥(やまほととぎす)
【歌意】夏の夜に見る夢のように儚い人生だったが、ホトトギスよ、どうか我が名誉を高らかに啼き称えてほしい。
昔から夏の夜明けを告げるホトトギスをお題として、勝家との惜別を詠んだお市の方と、最期まで武士としての名誉にこだわる勝家の個性が出ていますね。
これらは『賤岳合戦記』に収録されているものですが、こちらでは『毛利家文書』と違った最期が描かれていました。
……小谷の御方其外数々の女房達念誦称名の声哀れをとゝめけり若狭守文荷斎殿守の下に込草をつみ置兼ての用意残処もなくさたし置しかは心静に火をかけ半燃出るに及て雑人原をは出しさて勝家のおはしましける五重に上り下はかく仕まい申候御心静に沙汰し給へと申上しかは流石か最期はよかりけり男女三十余人同し烟と立上りぬ勝家の気象常にしも違ふ事それそれに感をなし卯月廿四日申の刻にそ終りにけり……
※『賤岳合戦記』「勝家切腹事」より。
【意訳】お市の方や女房たちが念仏を唱える声が実に哀れさを感じさせる。小島若狭守と中村文荷斎があらかじめ天守閣の下に用意していた込草(焚きつけ)に火をつけ、火勢が強まって来たあたりで雑人輩(ぞうにんばら。身分の低い者たち)を脱出させた。そして勝家らがいる天守閣の五階まで上がって報告する。覚悟を決めた勝家は自害して果て、男女30余名が炎と共に消えていった。すべては4月24日申刻(午後4:00ごろ)に終わったのである。
果たしてどちらが正しかったのか、今後の究明がまたれるところです。
終わりに

今回は北ノ庄城における柴田勝家とお市の最期について紹介しました。焼け落ちていく天守閣を見届けながら、秀吉は何を思ったのでしょうか。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、この名場面がどのように描かれるのか、心して見届けたいと思います。
※参考文献:
- 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年9月
- 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月

