医は仁術なり(医学は仁愛の心を実践する方法である)とはよく言ったもので、人の生命を救う医者は、まさしく聖職者とされてきました。
いっぽう聖職者であるからには、高い倫理性が求められたのは言うまでもありません。
それは勤務中か否かに関わらなかったようで、勤務外での不行跡を咎められるケースもあったようです。
今回は江戸時代の医者・林徴伯(はやし ちょうはく)のエピソードを見てみましょう。
医官の身にあるまじき始末なりとて……。

某
林徴伯 実は長谷川玄通某が二男。玄育が養子となる。
安永元年十二月二十七日遺跡を継、小普請となる。寛政元年七月十一日さきに親族浅井休徴行跡放埒なるをも諌めず、剰己が宅にをいて実兄長谷川玄通及び休徴とともに博奕せしこと、医官の身にあるまじき始末なりとて、遠流に処せらる。
※『寛政重脩諸家譜』巻1513 林 山本(未勘定)
【意訳】林徴伯。本名不詳、長谷川玄通(はせがわ げんつう)の次男で、林玄育(げんいく)に養子入りした。
安永元年(1772年)12月27日に家督を継ぐが、無役の小普請(こぶしん)となる。
寛政元年(1789年)7月11日、親族である浅井休徴(あさい きゅうちょう)の不行跡に連座させられた。
徴伯は浅井らの放埒な振る舞いを諌めないばかりか、あまつさえ自宅で実兄の長谷川玄通(父から襲名)や休徴らと博打に興じたという。
これは医官としてあるまじき振る舞いであり、遠流に処せられたのである。
……ということです。医者というのは、日ごろの振る舞いも折り目正しくなくてはいけなかったのでしょうか。
単純に賭博の罪だけなら、遠流にまでは処されなかったかも知れませんね。
しかし役のない小普請なのに、医官とはこれいかに……というのは、医官カテゴリの無役(医官の予備員)だったのでしょう。
遠流に処された徴伯がその後どうなったのか、詳しいことは分かっていません。
林徴伯・基本データ

- 生没:生没年不詳
- 本名:不詳(長谷川某⇒林某)
- 家族:長谷川玄通(実父)、林玄育(養父)、長谷川玄通(実長兄)
- 親族:浅井休徴(関係は不明。徴は医師流派の通字?)
- 主君:徳川家治→徳川家斉
- 職域:医官(武士)
- 役職:小普請(実質無役)
- 賞罰:遠流
- 罪過:不行跡の看過、博奕
略系図
……林牛斎(ぎゅうさい)―林玄益(げんえき)―林玄喜(げんき)―林玄育=林徴伯……
略年表
- 生年不詳
- 時期不詳 林玄育の養子に
- 安永元年(1772年)12月27日 家督を継ぎ、小普請に
- 寛政元年(1789年)7月11日 浅井休徴の連座で遠流に
- 没年不詳
終わりに
今回は江戸時代の医師・林徴伯について紹介してきました。
当時は医師に対して高い倫理意識が求められていたのですね。
『寛政重脩諸家譜』には、他にも面白いマイナー人物が多数収録されているので、また改めて紹介したいと思います!
※参考文献:
- 高柳光寿ら『寛政重脩諸家譜 第22』平文社、1966年4月