豊臣秀長にまつわる書状が菊岡家(奈良市)発見され、令和8年(2026年)2月16日に天理大学(天理市)から発表されました。
果たしてどんな内容だったのでしょうか。
いかに寺社勢力を手なずけるか

書状の差出人は秀長家臣の横浜良慶(横浜一庵)。宛先は興福寺(奈良市)の宗徒たちになっています。
書状の発給時期は秀長が兄の豊臣秀吉から大和国(奈良県)を拝領して間もない天正13年(1585年)ごろと見られ、伝統的な寺院の祭礼をつつがなく執り行うことを命じる内容となっていました。
秀長はこれから大和国が平和に治まるよう祈願させると同時に、あくまで自分の方が格上であることを示したかったのでしょう。
興福寺は大和国でも有数の武力を誇る古刹で、朝廷に対して強訴を行うなど為政者にとって脅威的な存在でした。
ないがしろにすれば叛乱が起こり、媚びへつらえばどこまでも増長する……大和国を統治する上で、最も扱いに困る寺社勢力といかにつき合っていくかが問われたのです。
国一つを統治する苦労が偲ばれる

今回の研究に携わった幡鎌一弘教授(天理大学)は「武力だけでなく寺社勢力も利用して、権力を高めようとした秀長の手腕がうかがえる」とコメントしました。
国一つを与えられるのは大変な栄誉ですが、統治の苦労を思えば、ただ手放しに喜んでばかりはいられなかったのでしょうね。
持ち前の人間性と交渉力を駆使して大和国の政治基盤を磐石に固めて行った秀長。果たしてその苦労と成功が、どのように描かれるのか、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しみにしています。
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