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まさに「喧嘩両成敗」!武田信玄の判決を武士道バイブル『葉隠』はこう伝えた

戦国時代
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武田信玄(たけだ しんげん)と言えば、喧嘩両成敗が有名です。自身の定めた分国法「甲州法度之次第」第十七条にこんな規定がなされました。

喧嘩の事是非におよばず成敗加ふべし……(後略)

【意訳】喧嘩をした者は、程度や理由のいかんを問わず処刑する。

喧嘩くらいで死刑なんて怖すぎる……と思うかも知れませんが、武士は常在戦場(常に戦場に在り)の精神が求められます。

もし敵前の陣中で喧嘩など始めようものなら、全軍が総崩れともなりかねません。

軍紀乱す者は死あるのみ(イメージ)

ならば討死したものとして双方斬ってしまえ……そういう切迫した事情が生んだ知恵と言えるでしょう。

では実際に喧嘩両成敗が適用された事例はあるのか……今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』の一説を紹介したいと思います。

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以来家中の見懲の爲、両人共に磔に懸くべし

「……左様か」
家老たちの報告を受けて、信玄は喧嘩に及んだ両名につき、磔刑を命じました。

磔刑(イメージ)

事の次第はこうです。

口論に及んだ武田家臣の甲が乙をねじ伏せ、殴る蹴るしていたところを周囲の者たちが引き剥がしたとのこと。

「それで踏みつけた甲は成敗として、踏みつけられた乙はいかが致しましょう」

そんなの乙も同じく成敗に決まっている……と言いたいところでしょうが、あえて家老たちが口添えしたのは、何か相応の(かばってやりたい)理由あったのかも知れません。

しかし、信玄はそんなものお構いなしで言いました。

「仮にも武士ともあろう者が、喧嘩に臨んで刀も抜かぬとは何事か。そんな腰抜けなぞ、どうせ戦さでも後れをとって役に立つまい。ちょうどよい見せしめとして、両名を磔とせい」

また両者を引き離した周囲の者たちについては

「喧嘩両成敗を知りながら、喧嘩していた両名を斬らぬとは何事か。もしこれが陣中であれば、味方は大混乱に陥りかねない事態であった」

として、ことごとく追放したということです。

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終わりに

懐月堂安度「武田信玄図」

一 甲斐信玄の家中の士、口論を仕出し、對手を取つて伏せ、散々打擲し、踏み付けしを、傍輩駈け附け、引き分けたり。家老共僉議にて、「踏まれたる士仕置仰せ付けらるべき」由申し上ぐる。信玄聞し召し、「勝負は末なり。武道を忘れ刀束を用ひざる事、冥加に盡きたる者共なり。以来家中の見懲の爲、両人共に磔に懸くべし。」と申し付けられ、引き分けたる傍輩共追放なり。

※『葉隠聞書』第十巻

以上、武田信玄の喧嘩両成敗エピソードを紹介してきました。

何もそこまで……と思ってしまいますが、そこまでしたからこそ厳格な軍規が徹底され、天下に誇る精強さを誇ったのでしょう。

ところで他の家中で喧嘩が起こった時はどうしていたのか、そっちの方も調べてみたいですね。

※参考文献:

  • 古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、1941年9月

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