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【歴人録】徳川家に仕え、活躍した真田昌幸(佐藤浩市)の弟・真田信尹【どうする家康】

戦国時代
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真田昌幸と言えば、天正壬午の乱よりこの方、関ヶ原合戦を経て死ぬまでアンチ徳川を貫いた人物として知られています。

徳川家臣と渡り合う真田昌幸(右)。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

ではその弟たち(兄たちは二人とも討死)もそうかと言えば、必ずしもそうではなかったようです。

今回は徳川家康に仕えた昌幸の弟・真田信尹(のぶただ)を紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。

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徳川家に二度仕える

真田信尹は天文16年(1547年)、武田家臣で信濃の豪族・真田幸綱(幸隆)の四男として誕生しました。通称は源次郎・、母親は三人の兄(信綱・昌輝・昌幸)と同じ正室の恭雲院(真田氏家老・河原隆正女)です。

父・真田幸綱(画像:Wikipedia)

幼少期から武田信玄のもとへ人質に出され、やがて甲斐の名門・加津野昌世(かづの まさよ。和野、鹿角)に養子入り。その名跡を継いで加津野信昌と名乗りました。

やがて隠岐守の官途(官職の私称)を許され、加津野市右衛門尉信昌と称します。

元亀2年(1571年)には北条綱成が守備する駿河国の深沢城(静岡県御殿場市)を攻略。綱成のトレードマークであった黄八幡(黄色地に八幡と記した旗指物)を奪いとりました。

信玄亡き後、武田勝頼の下では槍奉行を勤め、騎馬15、足軽10を率いて護衛したと言います。

やがて天正10年(1582年)3月に勝頼が天目山で自刃、武田家が滅亡すると加津野から元の真田姓に戻し、真田信尹と改名しました。

故郷へ舞い戻った信尹は兄と共に生き残りを模索、最初は越後の上杉景勝に従って牧之島城(長野県長野市)を守備します。

しかし北条氏直が信濃まで勢力を伸ばしてくると、いち早く寝返った昌幸と内応。北条の軍勢を城内に引き入れようと企んだものの、上杉への忠義を曲げなかった山田右近尉によって追放されてしまいました。

その後、信濃進出の勢いが今ひとつな北条よりも、近ごろ勢力を伸ばしている徳川家康に仕えた方が得ではないか。そう考えた信尹は昌幸の仕官を取り持ち、信尹は5,000石を与えられたと言います。

更に1万石まで所領を加増されたものの、どういう訳か信尹は徳川家を出奔。どういうことでしょうか。

一説には、天正18年(1590年)の小田原征伐(北条討伐)に際して江戸城を無血開城を実現する大手柄を立てたのに、家康からは満足な恩賞が与えられなかった不満とも言われるそうです。

蒲生氏郷(画像:Wikipedia)

ともあれ出奔後は池田輝政のなかだちによって会津の蒲生氏郷に仕え、5,000石で迎えられました。そこには武田家の同僚であった曽根昌世も仕えており、共に九戸一揆(天正19・1591年)の鎮圧に出陣しています。

蒲生氏郷は家臣思いなことで知られ、このままずっと仕えていたかったことでしょうが、残念ながら文禄4年(1595年)に氏郷が亡くなると御家騒動が勃発(蒲生騒動)。

会津を飛び出した信尹は、慶長3年(1598年)に再び徳川家に舞い戻りました。何だかんだ言って、居心地がよかったのかも知れませんね(あるいは、他家での扱いがよほどひどかったのか……)。

甲斐に4,000石の所領を与えられた信尹は慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で御使番を、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で旗奉行を務めました。

兄の昌幸は信州上田城(長野県上田市)に籠もって徳川秀忠率いる別動隊を相手に奮戦しており、兄弟骨肉の殺し合いは避けられています。

こうした武功によって1,200石を加増されて合計5,200石。その後は江戸幕府の直臣として徳川家に仕え、寛永9年(1632年)5月4日に86歳で亡くなります。当時としては、かなりの長寿ですね。

法名は無斎。墓は甲斐の龍岸寺(山梨県北杜市)にあり、遠く故郷の信州と、江戸で主君に奉公する子孫たちを見守っているのかも知れません。

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終わりに

兄を助け、奮戦した信尹(イメージ)

●信昌

源次郎 市右衛門 隠岐守 宗家豊後守幸專及庶流庄五郎信育、久次郎幸徳が今の呈譜に信尹につくる。真田弾正忠幸隆が四男、母は某氏。

武田家につかへ加津野某が養子となる。後武田家に得る所の北条左衛門大夫綱成が黄八幡の旗をあたへらる。勝頼没落の後北条家につかへ、天正十年九月二十八日このたび兄安房守昌幸御麾下に属せしこと、ひとへに信昌がはからひなす處なりとて、東照宮より御喜悦おほしめさるるのむね御書をたまひ、またこの事を慰せられて御書をもつて金五十両を賜ふ。後信濃国小県郡のうちにして逆心を企るものあるのよし東照宮に言上せしかば、御出馬ありて退治せらるべきむね御書を下さる。十二年駿河国にをいてはじめてまみえたてまつり、采地三千石をたまふ。後故ありて退身し、蒲生飛騨守氏郷につかへ、のちまためしかへされ甲斐国巨摩郡のうちにをいて三千石の地をたまひ、御使番となり、関原をよび大坂両度の御陣に供奉す。其後御旗奉行に転じ、千石を加増あり。すべて四千石を知行す。寛永九年五月四日死す。年八十六。法名無斎。甲斐国長坂村の龍眼寺に葬る。妻は武田家の臣馬場美濃守氏勝が女。

※他の文献と記述が異なる個所もあります。興味のある方は、読み比べてみると楽しいですよ!

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百五十五 滋野氏 真田

以上、真田昌幸の弟である真田信尹の生涯をたどってきました。残念ながら、NHK大河ドラマ「どうする家康」に登場することは恐らくないでしょう。

ただ関ヶ原合戦では使番(伍の旗印を差した伝令将校)、大坂冬の陣では旗奉行を務めているため、もしかしたら「あれが信尹かもな」と感じられるかも知れません。

【真田・海野氏略系図】

信濃国海野白鳥大明神(伝承)……滋野氏(※詳細諸説あり)……海野幸恒(海野を称す)―海野幸明―海野幸真―海野幸盛―海野幸家―海野幸勝―海野幸親―海野幸廣―海野幸氏―海野幸継―海野幸春―海野幸重―海野幸康―海野幸遠―海野幸永―海野幸昌―海野幸信―海野幸定―海野幸秀―海野幸守―海野幸則―海野幸義―海野幸数―海野持幸―海野氏幸―海野幸棟―海野棟綱―海野幸義―真田幸隆(真田を称す)―真田信昌―真田幸政―真田幸信(無嗣断絶)

※真田幸吉(幸信弟)―真田幸頼―真田幸隆―真田幸久―真田幸定―真田幸充―真田幸徳……

※『寛政重脩諸家譜』巻第六百五十四 滋野氏 真田

その後、信尹の子孫は真田の誇りと血脈を後世に伝え、明治維新を迎えることとなりました。彼らのエピソードも、また改めて紹介したいですね。

※参考文献:

  • 柴辻俊六『人物叢書 真田昌幸』吉川弘文館、1996年7月
  • 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』戎光祥出版、2015年7月

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