New! 徳川家康が北条氏政・氏直父子と初対面

【大河ドラマ先取り】長篠の合戦に敗北するも、いまだ闘志衰えぬ勝頼。武田・徳川の攻防は続く【どうする家康】

戦国時代
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時は天正3年(1575年)5月21日、長篠の合戦で勝利した徳川家康(とくがわ いえやす)。

武田勝頼(たけだ かつより)を下し、三方ヶ原の敗戦(トラウマ)を乗り越えた今、武田の軍勢恐るに足らずと反撃を開始しました。

捲土重来に燃える武田勝頼(イメージ)

しかし敗れたりと言えども、まだまだ力を残している武田勢。その後も一進一退の攻防戦が繰り広げられます。

今回も江戸幕府の公式記録『東照宮御実紀(徳川実紀)』より、天正4年(1576年)までの記録を読んでいきましょう。

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諏訪原城の死守を決意する松井忠次、改め松平康親

……かくて後は二股。高明。諏訪原等の武田の城々をせめられしにこの城々も力おとし。あるは迯さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往来の要路。しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔。尤要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で。吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家號并に御一字をたまはり。松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。寛永系図にはこの人御家號たまはりしは。永禄六年東條の城給ひし時の事とす。執是なりや。)……

※『東照宮御実紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」

【意訳】長篠の合戦後は、二俣城・高明城・諏訪原城など武田方の城を攻略していった。こと諏訪原城は高天神城との往来を結ぶ要所だが、駿河の田中城・持船城とは大井川を隔てるだけの守りにくい城である。

「それがし、一命に代えても諏訪原をお守り申す!」

守備の任務に名乗り出たのは松井左近忠次(まつい さこんただつぐ)。もし武田に攻められれば命はない……その忠義に感動した家康は、左近に松平の名乗りと諱の一字を与えて松平周防守康親(まつだいら すおうのかみやすちか)と名乗らせた。

勝頼の来襲に、殿軍を申し出た信康

……   君はこの勢に乗じ引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝頼城々責とらるゝと聞て。ふたたび兵をつのり小山の後巻すと聞えしかば。前後に敵をうけん事をいかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三郎君あながちに乞はせたまひてみづから殿をなしたまふ。   君は上の■まで乗上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては勝頼十万騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ。……

※『東照宮御実紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」

【意訳】さて、連戦連勝の勢いに乗って家康が小山城へ攻め込むが、これはさすがに見過ごせないと勝頼は自ら後巻(後詰)の軍勢を繰り出す。

徳川信康。勝蓮寺蔵

形勢不利と悟った家康は速やかに兵を退いたが、この時に殿軍(しんがり)を買って出たのが嫡男の岡崎三郎こと徳川信康(のぶやす)。

「必ず、無事で戻れよ」

「はい!」

果たして信康は本軍を無事逃がすことに成功。ここまで来れば大丈夫……ひと息ついた家康が振り返ると、信康が巧みな采配で武田の大軍を受け止めている。

「見事じゃ三郎。あれならたとえ十万騎であろうと恐れるに足りぬわい」

まったく頼もしい跡取りを授かり、我ながら果報者じゃ……喜びながら諏訪原城へ入った。

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武田も撤兵、大久保忠世が二俣城主に

……勝頼が勢も伊呂崎の岸までいたりしかども。長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば。高坂が諫に志たがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば。此城をば大久保七郎右衛門忠世に給ふ。……

※『東照宮御実紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」

【意訳】一方、兵を退いた家康を追いすがろうとする勝頼。

「者ども、追え!一人も逃すな!」

高坂弾正忠昌信。歌川国芳筆

しかし高坂弾正昌信(こうさか だんじょうまさのぶ。春日虎綱)が諫めて言うには、

「畏れながら申し上げる。我らが軍勢は、先の大敗より後に掻き集めた新兵ばかり。士気練度ともに不十分なれば、深追いは禁物にございまする」

「……相分かった」

仕方なく兵を退いた勝頼。12月に二俣城を攻略した家康は、大久保七郎右衛門忠世(おおくぼ しちろうゑもんただよ)をその城主とした。

明けて天正四年

……四年正月廿日浜松の城にて。甲冑の御祝連歌の■をひらかれいははせたまふ。(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし。)此彌生勝頼また遠州へ発向す。横須賀は高天神の押として大須賀五郎左衛門康高が守る寨なりしを。烈しく責ると聞たまひ。   君浜松より後巻したまへば。今度も高坂が強て諫め勝頼も引かへしけるが。瀧坂鹽買坂辺に松平康親備を張るゆへに。高天神に軍粮運送を得ざるを患ひ。高坂に命じ椿原郡相良に新城を築かせ粮をこめて甲州へかへる。……

※『東照宮御実紀』巻二 天正四年-同五年「天正四年」

【意訳】年が明けて天正4年(1576年)。1月20日に浜松城で甲冑祝いの連歌会が開かれた。

3月になって勝頼がまた遠江へ攻めて来る。大須賀康高(おおすが やすたか。五郎左衛門)が守備している横須賀寨が包囲されていると聞いて家康自ら出陣。

大須賀康高。日光東照宮 蔵「徳川二十将図」

後巻として勝頼の背後を突こうとするところ、それを察知した高坂弾正がまたしても撤退を進言する。

「高天神城の糧道を断たれぬよう、相良に城を築いておけ」

「御意」

こうしてひとまず兵を退いた勝頼は、甲州へと帰って行った。

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7月、乾城を攻略

……是より先上杉謙信入道酒井忠次に書簡を送り。   君と謀を合せて勝頼を攻んと聞えしかば。七月遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし。勝坂の砦を攻らるゝ時。天野宮内右衛門景貫乾の城より打て出。潮見坂の険岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり。大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を迯出鹿が鼻の城にこもる。   君もさのみ人馬を労したまわんこと御心うく思召て。一先御馬を納めたまひしが。景貫は遂に乾の城を守ることを得ずして甲斐へ迯去る。……

※『東照宮御実紀』巻二 天正四年-同五年「天正四年」

【意訳】越後の上杉謙信(うえすぎ けんしん)より酒井忠次(さかい ただつぐ)に「共に武田を攻めよう」と書簡が送られた。そこで7月、武田方の乾城を侵攻した。

乾城へ大筒を打ち込む大久保忠世(イメージ)

城主の天野宮内右衛門景貫(あまの くないゑもんかげつら)は地の利を活かした巧みな用兵で善戦。そこで大久保忠世は石が峰に登って城内へ雨のごとく大砲を打ち込むと、天野は乾城を出て鹿が鼻城へ移った。

家康は人馬の疲労を憂慮して(ひとまず休んで長丁場に備えようと)一足先に休もうとしたところ、天野の方が先に根負けして甲斐へ撤退していった。

終わりに

……かくて後も勝頼はしばゝゞ遠州にはたらきて。浜松を襲はんとする事しばゝゞなりしといへども。さして志出したる事もなし。信長卿はことし大納言より内大臣に昇られ兵威ますゝゝ盛なり。……

※『東照宮御実紀』巻二 天正四年-同五年「天正四年」

【意訳】これ以降も勝頼はしばしば遠州へ兵を出し、浜松城を攻めようとしたが、深刻な事態には至らなかった。

ちなみに織田信長(おだ のぶなが)は天正4年(1576年)に大納言から内大臣に昇格し、その武威はますます盛んとなる。

……以上、長篠の合戦後から天正4年(1576年)まで、武田と徳川の小競り合いを紹介してきました。もはや武田は、かつてのような脅威ではなくなりつつあったようです。

長篠に散華した宿将たち(イメージ)月岡芳年筆

一方、武田家を建て直そうと奮闘する高坂弾正。もう山県も内藤も馬場もいない……その心細さは、察するに余りあります。

まさに「どうなる勝頼」……NHK大河ドラマ「どうする家康」ではどのような展開が用意されているのか、放送が楽しみですね!

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション

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