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初陣で大手柄!剣豪でもあった奥平信昌(白洲迅)の武勇伝【どうする家康】

戦国時代
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家康の娘・亀姫が嫁ぐ奥平家当主
奥平信昌 おくだいら・のぶまさ
[白洲迅 しらすじん]
武田との最前線の地である奥三河の山深き長篠城城主。激戦が続く中、武田に寝返らないよう信長は、徳川家の幼き姫・亀姫を信昌に嫁がせるように命じる。亀姫は山奥の地に嫁入りすることに不安を抱くが、信昌は心優しき若き当主。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より

武田信玄(演:阿部寛)亡き後も続く、徳川家康(演:松本潤)と武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の激闘。徳川領の最前線を支えた一人が、こちらの奥平信昌(演:白洲迅)でした。

白洲迅演じる奥平信昌。NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

16歳で初陣を飾って以来、数々の武功を重ねた信昌は、すぐれた軍略と合わせて剣術の心得も備えていたと言います。

今回は若き信昌と家康の剣術談義エピソードを紹介。果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」では披露されるのでしょうか?

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戦の道は筋骨の動きによらず……

●信昌 初定昌 九八郎 美作守 従五位下 母は成種が女。
弘治元年三河国に生る。元亀元年六月姉川の役に、父貞能とともに東照宮にしたがひたてまつり、力戦して敵二騎をうち取、実検に備ふ。時に十六歳 東照宮御覧ありて小腕をもつて、首級を得しこと其功大なりとの御感をかうぶる。信昌謹で戦の道は筋骨の動きによらず。唯其術にこそより候へと申せしかば、汝剣法を学びたりやと御尋あり、信昌奥山流を学びたりと答へたてまつる。しからば汝が家臣急加齋を師とせるか。いはくしかり。又仰に余も若かりしとき、其流を学ぶといへども、事繁きがゆへに怠れり。凱旋ののち必彼に面会したまはむと御諚あり。……

※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十六 平氏(良文流)奥平

奥平信昌は弘治元年(1555年)、奥平貞能(さだよし)の嫡男として誕生しました。元服して最初は定昌(さだまさ。貞昌)と改名、通称は九八郎(くはちろう)です。

元亀元年(1570年)の姉川合戦で初陣を飾った九八郎は敵の首級を二つも上げ、これを首実検にそなえました。

首級を持ち帰る九八郎(イメージ)

「おぉ、九八郎。小さな身体で大手柄、よう励んだのう(小腕をもつて、首級を得しこと其功大なり)」

年若くも見事な武功にご満悦の家康。しかし小さな身体にコンプレックスがあったのか、九八郎は口を挟みます。

「畏れながら、戦は体格でするものではございませぬ。ひとえに兵法がモノを言いまする」

生意気にも口答えする九八郎を面白がったのか、家康は尋ねました。

「少しはやるようじゃの。そなたは剣術を学んでおるのか?」

「奥山流にございまする」

奥山流とは急加斎(きゅうかさい)こと田城公重(たしろ きみしげ。奥山孫次郎公重)が開いた流派。

奥山に籠もって修行を重ね、奥山流を開いた田城公重(イメージ)

その師・上泉伊勢守秀綱(かみいずみ いせのかみひでつな。上泉信綱)より伝授された神陰流(しんかげりゅう。新陰流)の流れを汲んでいます。

「ほう、ならば急加斎に学んだのじゃな」

「然り」

急加斎と九八郎の家はそれぞれ四代祖先・奥平貞久(さだひさ)から枝分かれしており、続柄的にはいとこ同士なのでした。ただし九八郎(奥平)は本家、急加斎(田城)は分家です。

「左様か、懐かしいのぅ。実はわしも昔、急加斎に学んだことがあったのじゃ。しかし忙しさにかまけてついつい怠けてしまったわい」

実は兄弟弟子であった家康と九八郎。後に天正2年(1574年)10月28日、家康は急加斎を岡崎へ召し出し、同年11月28日に取り立てたということです。

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終わりに

その後も徳川家に忠義を尽くした奥平家ですが、天正元年(1573年。元亀4年)8月に一度は武田信玄へ降伏してしまいます。

信玄死後に間もなく徳川家へ帰参した奥平家。無節操にも見えるものの、これも強国同士の板挟みに揺れる辺境勢力の苦労と言えるでしょう。

長篠城を死守する九八郎たち。「長篠合戦図屏風」より

一度は武田に降ってしまった汚名を返上するべく、九八郎たちは武田の大軍から長篠城を徹底死守(天正3・1575年の長篠合戦)。

その功績により、晴れて亀姫を正室に迎え、織田信長(演:岡田准一)から信の字を拝領。奥平信昌と改名したのでした。

NHK大河ドラマ「どうする家康」でも大活躍が期待されますから、白洲迅の熱演に注目ですね!

※参考文献:

  • 高柳光寿ら編『新訂 寛政重脩諸家譜 第九』平文社、1965年3月

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