江戸幕末、日本国の未来を憂えて多くの志士たちが立ち上がり、行動を起こしました。
今回はそんな一人、仙台藩士として活躍した星恂太郎(ほし じゅんたろう)を紹介。その激しい性格と行動力で、どんな人生を駆け抜けたのでしょうか。
要人暗殺に失敗、脱藩して江戸へ飛び出す
星恂太郎は江戸時代後期の天保11年(1840年)10月4日、星道栄(どうえい。日光東照宮宮司)の息子として誕生しました。
やがて江戸幕府の台所人・小島友治(こじま ともはる)の養子となって小島孝治(たかはる)と改名。
しかし武士たる者が料理などやっていられるか!と養家を飛び出し、星家に戻って武芸に邁進します(以下、星恂太郎で統一)。
こんな具合に熱く激しい性格の恂太郎は国学にも目覚め、過激な尊皇攘夷思想の持主に成長しました。
「国賊・但木土佐を斬るべし!」
仙台藩に仕官した恂太郎は、開国論を唱える家老・但木成行(ただき なりゆき。但木土佐)を暗殺せんと画策。金成善左衛門(かねなり ぜんざゑもん)らと徒党を組んで機会を狙います。
「……君たち。それが真に日本国のためになると思うのかね」
暴走する恂太郎らを諭すのは、同じく開国派として狙われていた大槻磐渓(おおつき ばんけい)。
現在の世界情勢をかんがみ、日本が西欧列強と渡り合うためにこそ開国が必要であると説かれた恂太郎は、自らの無知を恥じて仙台から脱藩してしまいました。
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但木土佐と和解、洋式兵術を学ぶ
さて、仙台から江戸へ飛び出した恂太郎。しかし感情に任せた無計画な行動だったため、生活資金がたちまち底をつきます。
「……何とか工面してくれぬか」
「うーん。暫し待て」
時は元治元年(1864年)、恂太郎から無心された江戸勤番の富田鐵之助(とみた てつのすけ)は、但木土佐に相談しました。
「……左様か」
但木土佐は恂太郎が自分を斬ろうと企んでいたことは百も承知で、資金提供を快諾しました。
「あの者は志し高く、見どころがある。きっと仙台の宝となるだろう」
暗殺という手段はともかく、自分たちの意思と行動で未来を切り拓こうとする姿勢を、高く評価した但木土佐。私情よりも公益を重んじる度量は実に立派です。
恂太郎は但木土佐の心意気に応えようと学問に取り組み、幕臣の川勝広道(かわかつ ひろみち)や下曽根信之(しもそね のぶゆき)から洋式銃を取り入れた兵学を教わります。
また、横浜でアメリカの貿易商ヴァンリードの下で働きながら西洋砲術を学び、後に仙台藩軍制の近代化に貢献する人材に成長しました。
仙台に戻り、洋式軍隊を訓練するが……
やがて慶応4年(1868年。明治元年)に戊辰戦争が勃発すると、恂太郎は仙台藩に呼び戻されて楽兵隊(がくへいたい)の訓練を任されます。
「用意、てー!」
見事な采配が評価され、仙台藩主・伊達慶邦(だて よしくに)は恂太郎を再び取り立てました。
しかしせっかく調練した楽兵隊は各隊へ編入され、それぞれの配属先で旧態依然とした指揮官の下に置かれます。
「これでは意味がないではないか!」
恂太郎は独自に仙台藩士の次男坊・三男坊などを掻き集め、改めて洋式兵術の調練を施しました。これが額兵隊(がくへいたい)です。
その数はおよそ800名、横浜から仕入れた洋式兵装はもちろんのこと、組織編制も徹底しています。全6個小隊で砲兵・工兵・軍楽隊に至るまで備えた近代的な軍隊を整えました。
「よし、これで薩長なにするものぞ!」
闘志満々で薩長軍を待ち受けたものの、仙台藩が奥羽越列藩同盟を離脱して降伏。ならば最初から戦わねばよかったではないか!恂太郎は憤り、額兵隊だけでも一矢報いんと抗戦の意思を示します。
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再び脱藩、北の大地へ
「かかれ!」
恂太郎の指揮により、仙台を離れて相馬中村城(現:福島県相馬市)を占領した額兵隊。もう薩長軍に降伏するつもりでいたから戦闘配備を解いた隙の出来事でした。
慌てた伊達慶邦らは額兵隊を説得、恂太郎も主君と戦うつもりはなかったために相馬中村城を明け渡します。
勝手に兵を挙げたことは赦されたものの、抗戦派である恂太郎の存在が薩長軍の心証を悪くすることは間違いありません。
恂太郎が粛清されるなどの風聞が立つ中、松島湾に停泊していた旧幕府艦隊の榎本釜次郎(えのもと かまじろう。榎本武揚)と意気投合。
「我らはまだ諦めぬ。北に新天地を拓き、反攻の足掛かりとするのだ!」
こうして恂太郎は再び脱藩。二関源治(にのせき げんじ)・荒井平之進(あらい へいのしん)ら250名と共に蝦夷地を目指すのでした。
※二関源治は間もなく別行動をとり、石川欽八郎(いしかわ きんぱちろう)らと共に見国隊(けんこくたい)を編成。額兵隊と共に薩長軍と戦います。
エピローグ
かくして箱館(函館)まで転戦し(箱館戦争)、大いに知略と武勇を奮った恂太郎。しかし武運拙く敗退し、いよいよ降伏が迫る中、敵将・黒田清隆(くろだ きよたか)より酒樽と鮪が贈られてきました。
「これは毒に違いない」
誰もがそう警戒する中、恂太郎はひとり酒樽の鏡を開いて大盃を呑み干します。「同じ死ぬなら、恐れることなく堂々と振る舞おう」そんな心意気に感じて、みんなで酒を呑み干します。
降伏後は弘前藩(現:青森県弘前市)に幽閉され、明治3年(1870年)3月に釈放された恂太郎は、開拓大主典として北海道に移住。やがて製塩業も展開しました。
そして明治9年(1876年)7月27日に37歳で世を去ります。恂太郎は諱を忠狂(ちゅうきょう)と言いましたが、まさに忠君愛国に狂奔した人生でした。
※参考文献:
- 近世名将言行録刊行会 編『近世名将言行録 第一巻』吉川弘文館、1934年6月
- 高橋是清『是清翁遺訓 日本国民への遺言』三笠書房、1936年10月
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