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【鎌倉殿の13人】阿野時元と源頼茂が謀叛。『保暦間記』が描く『吾妻鏡』との違いは

鎌倉時代
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源実朝(みなもとの さねとも)が暗殺されたことで鎌倉殿(将軍)がいなくなってしまった鎌倉。果たして次の鎌倉殿は誰に……中には混乱に乗じて、我こそはと兵を挙げる者もいました。

今回は実朝の死後に謀叛を起こした阿野時元(あの ときもと。阿野全成の嫡男)と源頼茂(みなもとの よりもち。源頼政の孫)を紹介。

さっそく南北朝時代の歴史書『保暦間記』を読んでいきましょう。

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挙兵したのは兄弟どっち?

……悪禅師全成の子息阿野次郎隆光将軍の無跡成けるを見てひそかに宣旨を申給て謀叛を起されけるか甲斐なく同二月廿日終に討れぬ……。

※原文はカタカナ&改行なし。読みやすくひらがなに直し、適宜改行しています。

※『保暦間記』「隆光謀叛」より

【意訳】悪禅師こと阿野全成(ぜんじょう)の子息、阿野次郎隆光(じろうたかみつ)が鎌倉の将軍不在に乗じて朝廷に(自分を将軍にするよう)宣旨を求め、兵を挙げた。しかしその甲斐なく(実朝が暗殺された建保7・1219年と)同年2月20日に討たれてしまった。

※『吾妻鏡』による阿野時元の謀叛はこちら。

……『吾妻鏡』では阿野時元が謀叛の主犯であるのに対して、こちらでは阿野隆光に。また時元は四男(四郎)なのに対して、隆光は次男(次郎)。討死(自刃)した日付は『吾妻鏡』では2月22日と若干のズレがあります。

これらの記述を総合すると、阿野隆光と阿野時元は共に挙兵。隆光は2月20日に討たれ、時元は2月22日に自刃したということでしょうか。

なお、時元は別名を阿野三郎隆元(『系図纂要』など)、隆光は阿野二郎頼高(『尊卑分脈』など)とも呼ばれます。

京都で討伐された源頼茂

同二十三日左馬頭頼茂朝臣 源二位頼政孫 大裏の守護にて候けるか将軍の望あるに依て謀叛を起し内裏に立籠けるを時刻を移さす責られけれは仁寿殿に籠て自害しけり此時代々仙洞の重宝失にけるとそ聞ゆ……。

※『保暦間記』「隆光謀叛」より

【意訳】また2月23日、京都で内裏を守護していた左馬頭(さまのかみ)こと源頼茂が将軍位を望んで謀叛を起こしたが、間もなく攻め滅ぼされた。頼茂が自害に際して火を放ったため、皇室代々の宝が焼失してしまったという。

……『吾妻鏡』だと源頼茂の挙兵は7月13日。ずいぶんとズレがありますね。

源頼茂の追討を命じる後鳥羽上皇。その狙いは打倒鎌倉だった?(イメージ)

また滅ぼされた理由は「叡慮に背くに依りて(意:朝廷≒後鳥羽上皇の意に反したため)」とあり、果たして鎌倉殿の座を狙ったゆえか、それとも在京の親鎌倉派を粛清する意図があったのかも知れません。

仁寿殿で自害した最期についてはどっちも同じで、多くの宝が灰燼に帰してしまいました。まことに残念でなりませんね。

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三寅(藤原頼経)、第4代鎌倉殿に

……さて、鎌倉殿の不在が長引けば、こうした謀叛が相次ぐでしょう。そこで急ぎ迎えたのが三寅(みとら。後の藤原頼経)でした。

三寅(後の藤原頼経)

……三代将軍の跡さて有へきにあらされは将軍を定申されけり其比光明峯寺入道関白の三男 時号三寅御前 と申はいさヽか先将軍の縁類にて御座けれは此人を将軍に定らるへしと二位殿並義時関東の侍共公家へ申給りぬ同六月三十日に請し下し奉り大納言入道将軍とそ申ける■関東の事を下知せられけれ共萬つ義時一人の申す旨に任せ公家の御事をたに押計ひ申て今は王法も如形廃しけり……。

※『保暦間記』「再立将軍」より

【意訳】三代将軍の跡が絶え、このままではいけないと九条道家の三男・三寅御前を次期鎌倉殿に定めた。源氏の縁者だからと尼御台・政子(二位殿)と北条義時(ほうじょう よしとき)が要望し、御家人たちに迎えさせた。以来、義時は政治をほしいままに朝廷をないがしろにするのであった……。

かくして鎌倉と朝廷は対立を深め、やがて承久の乱へとなだれ込んでいきます。

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終わりに

今回は『保暦間記』より、実朝死後の混乱を垣間見てきました。

鎌倉幕府の公式記録としておなじみの『吾妻鏡』とは違った視点で描かれた物語を合わせて知ることで、大河ドラマもより深く味わえるでしょう。

※参考文献:

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