都にも わびしき人の 数多あれば
なほこのたびは いかむとぞ思(ふ)……
【意訳】京の都にも、会いたい人がたくさんいるので、きっと生きて行こう(京都に帰ろう)と思うのです。
これは紫式部(役名まひろ)の兄弟・藤原惟規(ふじわらの のぶのり)が最期に詠んだ歌。
最後の文字(ふ)は、そこまで書けず息絶えてしまったのを、父・藤原為時(ためとき)が推測で書き足してあげたのでした。
さて、都へ帰ることを望みながら、叶わずして世を去った藤原惟規。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。
今回は紫式部の兄弟として知られる藤原惟規の生涯をたどってみましょう。
NHK大河ドラマ「光る君へ」を楽しむご参考にどうぞ。
藤原惟規の生涯をたどる
藤原惟規は生年不詳、天延2年(974年)ごろの誕生と考えられています(諸説あり)。
姉妹の紫式部と生年が近いため、兄とも弟とも言われており、とりあえずNHK大河ドラマ「光る君へ」では弟説が採用されました。
父は藤原為時、母は紫式部と同じ藤原為信女(役名ちやは)です。
幼名は太郎とされていますが、これは大河ドラマのオリジナル設定。実際のところは不明とされます。
学者であった父の才覚はあまり受け継がなかったようで、幼年期に漢籍を暗唱出来ず、姉妹の紫式部に先を越されてしまった残念エピソードが伝わっています。
為時「あぁ、まひろが男の子だったら良かったのに……」
いえいえお父様、まだまだこれからですよ。ちょっと見切りをつけるのが早すぎやしないでしょうか。
それでも太郎はグレることなく?成長し、元服して後は藤原惟規と改名します。
若くして文章生(もんじょうしょう)となり、長保6年(1004年)正月に少内記(しょうないき)を務めました。
その後も兵部丞(ひようぶのじょう)・六位蔵人(ろくいのくろうど)・式部丞(しきぶのじょう)を歴任。寛弘8年(1011年)には従五位下に叙せられます。
のち越後守(えちごのかみ)となった父や姉妹と共に都を離れ、越後国へ赴任しました。
しかし水が合わなかったのか、その年の内に世を去ってしまうのです。享年38歳?
冒頭の歌から察するに、京都を懐かしがっていたのでしょう。異郷に果てた胸中は察するに余りあります。
そんな惟規には妻子がおり、正室に迎えた藤原貞仲女(さだなかのむすめ)との間には嫡男の藤原貞職(さだもと)を、生母不明の藤原経任(つねとう)を授かりました。
彼らがその後どんな生涯をたどったのか、改めて紹介したいと思います。
終わりに
藤原惟規・基本データ
生没年 | 天延2年(974年)生?~寛弘8年(1011年)没 |
氏族 | 藤原氏北家良門流 |
両親 | 父:藤原為時/母:藤原為信女(ちやは) |
兄弟姉妹 | 藤原為時長女、紫式部(まひろ) |
異母兄弟 | 藤原惟通、定暹(僧侶)、女子(藤原信経室) |
主君 | 一条天皇 |
官位 | 従五位下/越後守 |
妻妾 | 藤原貞仲女、側室? |
子女 | 藤原貞職、藤原経任 |
以上、藤原惟規の生涯を駆け足でたどってきました。紫式部と違ってそこまで学才に恵まれず、風流と典雅に生きたようです。
まひろの弟
太郎(たろう)
湯田 幸希(ゆだ・こうき)まひろ(紫式部)の弟。のちの藤原惟規。勉学が苦手で、文学の才がある姉としょっちゅう比較されている。のんびり、ひょうひょうとした性格。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイト(人物紹介)より
果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」ではどんな惟規が演じられるのか、高杉真宙さんの好演が今から楽しみですね!
※参考文献:
- 岡本梨奈『面白すぎて誰かに話したくなる 紫式部日記』リベラル社、2023年11月
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