征夷大将軍として江戸に幕府を開き、天下人となった徳川家康(とくがわ いえやす)。しかし7歳から19歳までは今川義元(いまがわ よしもと)の許へ人質に出され、たいそう苦労していたと言います。
立場が弱いから当然いじめる者もおり、そんな一人が原見石主水(はらみいし もんど、孕石元泰)。武家の子として鷹狩りに励んでいると「人質のくせに生意気な」などといびったとか。
しかし永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が討死すると家康は独立、三河国を取り戻します。また原見石主水は永禄11年(1568年)に武田信玄(たけだ しんげん)の侵攻を受け、武田家に降伏しました。
家康と原見石主水の再会はそれから更に年月の流れた天正9年(1581年)3月22日。武田方の支配していた高天神城が陥落し、捕虜の中に主水の姿が。
「……久方ぶりじゃのう、主水よ」
果たして、家康の判決やいかに……?
永年の恨み、実は家康の逆ギレだったっぽい
「腹を切れ」
原見石主水に対する処分は、切腹一択でした。
「幼き頃の恨み、わしは忘れておらぬでな」
もう数十年も昔のことを怨み続けていた家康の執念深さに驚くばかりですが、主水は主水で反論があります。
「何を吐(ぬ)かすか、怨みと言うならこっちのセリフじゃ。いつも鷹が迷い込んで来るだけならまだしも、狩った獲物や汚物まで落としよってからに(家康と主水の屋敷は隣同士でした)」
それで度々苦情を入れていたのを、家康は逆ギレ。当時主君であった今川義元に叱るよう訴えても、家康(当時は竹千代)を可愛がっていた義元は「まぁまぁ子供のすることだから」と聞く耳持ってくれませんでした。
「うるさい、斬首でなかった(切腹は武士としての処遇)だけでも感謝するんだな!」
事ここに至った以上、いくら正論を言っても始まりません。仕方なく翌3月23日、原見石主水は切腹するのでした。
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十方仏土中、無二亦無三、除仏方便説
しかし、このままただ腹を切ってなるものか……と思ったのか、原見石主水は切腹に臨んで南向きに座ったと言います。
「おい、腹を切るなら西を向かれよ。極楽浄土はあっちじゃぞ」
当時、極楽浄土は人間界のはるか西方にあると信じられ、自決する者は西を向いて念仏を唱えるなどするのが通例でした。
「ははは、原見石主水ほどの人物がそんなことも知らぬのか。あるいは死の恐ろしさに、方角もようわからなくなったのか」
周囲の者が口々に笑う中、原見石主水は猛然と反論しました。
「法華経に『十方仏土中、無二亦無三、除仏方便説(じっぽうぶつどちゅう、むにやくむさん、じょぶつほうべんせつ)』とあるのを知らんのか」
「何だそりゃ?」
「ざっくり言えば『十方いずれの方角にも唯一なる仏さまがいらっしゃる』との教え。よって腹を切るのに向く方角は、何なら北でも東でも構わんのじゃ」
そう言い張って主水は、敢然と腹を切って果てたということです。
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終わりに
かくして非業の死を遂げた原見石主水。かつて家康と隣同士に住んでいたのが運の尽きだったようです。
令和5年(2023年)NHK大河ドラマ「どうする家康」ではこのエピソードをどのようにアレンジするのでしょうか。そもそも取り上げるのでしょうか。
幼少期において家康(幼名は竹千代)が苦労したことを描写する上で、印象に残るシーンなので多分やるとは思いますが……原見石主水のキャスティングにも注目ですね。
今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 小林賢章訳『三河物語(上)』教育社、1980年1月
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