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【歴人録】死ぬな!三方ヶ原合戦で仲間に救出された牧長正。しかし…【どうする家康 外伝】

戦国時代
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時は元亀3年(1572年)12月22日。徳川家康にとって悪夢のような惨敗を喫した三方ヶ原合戦。

武田信玄の術中に陥って多数の将兵が命を喪い、一時は家康までもが窮地に陥るほどでした。

今回は三方ヶ原合戦で命を落とした徳川武将の一人・牧長正(まき ながまさ)を紹介。その悲しい最期を見届けたいと思います。

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牧長正の生涯をたどる

歌川芳虎「三河後風土記之内 天龍川御難戦之図」

●長正

右衛門四郎 義珍が呈譜長定に作る。実は長治が兄牧下野守長義が二男、母は加藤太郎左衛門正之が女なりといふ。

東照宮につかへたてまつり、元亀三年十二月廿二日三方原の役に榊原康政が手に属して奮戦し、大に疵をかうぶりて倒れふす。敵これをみて其首をとらんとせしとき、丹羽六大夫某酒井與九郎重勝はせきたりて、これをたすけ浜松城にかへる。この夜城中にをいて死す。年四十一。義珍が呈譜四十二 法名善祝。

※『寛政重脩諸家譜』巻第五百九十二 橘氏 牧

牧長正は天文元年(1532年)、牧長義の次男として誕生しました。

母親は加藤正之(太郎左衛門)女、通称は右衛門四郎。元服して長正と改名しますが、史料によって牧長定とも伝わるそうです(正と定を間違えた?)。

叔父の牧正勝に養子入りして分家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えたものの、在職中の動向についてはよく分かっていません。

果たして運命の三方ヶ原合戦では榊原康政の部隊に属して奮戦。大いに武勇を奮いましたが重傷を負い倒れてしまいました。

「その首、もらった!」

武田の兵が長正に襲いかかったところ、仲間の丹羽六大夫と酒井重勝(與九郎)がこれを追い払い、長正を救出して浜松城へと担ぎこみます。

「忝(かたじけな)い……」

しかし懸命の手当ても甲斐なく、その夜息絶えてしまったのでした。享年41歳、法号を善祝と名づけられたということです。

長正の息子・牧長勝

家康の使番(伝令将校)として活躍した長勝たち。「関ヶ原合戦図屏風」より

●長勝

又十郎 助右衛門 母は某氏。

東照宮につかへたてまつり、天正五年伊勢国河内の役に力戦して首級を得たり。時に十六歳 のち流落して瀧川一益につかふ。一益甲斐国天目山に攻寄るのときも軍功を励し首級を得たり。一益高野山に入ののち十八年召返されて、東照宮につかへたてまつる。この年小田原陣に供奉し御使番をつとめ、慶長五年九月関原の役にも扈従す。元和八年十二月十三日死す。年六十一。法名宗心。武蔵国足立郡大成村の普門院に葬る。のち代々葬地とす。

※『寛政重脩諸家譜』巻第五百九十二 橘氏 牧

以上、三方ヶ原合戦で討死した牧長正の生涯をたどってきました。せっかくなので、父と同じく家康に仕えた嫡男の牧長勝(ながかつ)についても紹介したいと思います。

牧長勝は永禄5年(1562年)に誕生。母親は某氏とのこと。通称は又十郎、あるいは助右衛門と呼ばれました。

16歳となった天正5年(1577年)に伊勢国安濃郡河内村の合戦(現:三重県津市)で首級を上げる武勲を立てます。

ところで天正5年(1577年)に伊勢国で起こった「河内の役」とは、いったい誰と戦ったのでしょうか。役とは対外戦争を意味するため、織田領における叛乱を鎮圧する援軍として派兵でもされたのでしょうか。今のところ、詳しい文献が見つけられないため、新たな発見があったら補記したいと思います。

その後、どういう訳か家康の元を出奔してしまった長勝。織田家臣の瀧川一益に仕え、天正10年(1582年)に武田勝頼を滅ぼした際も、奮戦して首級を上げました。

新天地で立身出世するかと思ったら、天正11年(1582年)瀧川一益が失脚すると再び浪人に。数年間放浪した末、天正18年(1590年)に再び家康に召し返されたのです。

その年の小田原北条征伐・関ヶ原合戦(慶長5・1600年)に使番として従軍。やがて元和8年(1622年)12月13日、61歳で世を去ったのでした。

法名は宗心、武蔵国足立郡大成村(現:埼玉県さいたま市)の普門院に葬られ、以後代々の葬地となったそうです。

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終わりに

前線から舞い戻った使番。「五」の旗印と赤い陣羽織がその証し。牧長勝も、このどこかにいたかも?「関ヶ原合戦図屏風」より

牧氏略系図

……斯波高経~(中略)~津川義長―牧正勝―牧長正―牧長勝―牧長重―牧勝秋―牧太兵衛(無嗣断絶)

※牧長高(長重次男)―牧長富―牧義陳(よしのぶ)―牧長賢―牧義珍(よしたか)―牧義利……

牧長正・略年表

天文元年(1532年)誕生(1歳)
時期不明叔父の牧正勝に養子入り
元亀3年(1572年)12月22日三方ヶ原合戦で討死(享年41歳)

牧長勝・略年表

永禄5年(1562年)誕生(1歳)
天正5年(1577年)伊勢国河内の役で初陣、首級を上げる(16歳)
時期不明徳川家から出奔する
時期不明瀧川一益に仕官する
天正10年(1582年)武田討伐(天目山の戦い)で首級を上げる(21歳)
天正11年(1583年)瀧川一益の失脚により、再び浪人に(22歳)
天正18年(1590年)家康に召し返され、再び徳川家に仕官する(29歳)
小田原征伐に使番として従軍
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦に使番として従軍(39歳)
元和8年(1622年)世を去り、普門院に葬られる(享年61歳)

以上、徳川家康に仕えたマイナー武将・牧長正と牧長勝父子のエピソードを紹介して来ました。父の長正は既に討死していますが、子の長勝は小田原征伐・関ヶ原で使番として画面のどこかに登場しているかも知れません。

NHK大河ドラマ「どうする家康」に名前が出ることはないでしょうが、彼らのような存在にも気をかけてみると、時代劇がより一層楽しめるのではないでしょうか。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第4輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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