徳川家康(とくがわ いえやす)の城と言えば、その原点である岡崎城(おかざきじょう。愛知県岡崎市)を挙げる方が多いと思います。
竹千代(家康の幼名)はここで生まれ(※)、今川義元(いまがわ よしもと)の人質にとられた時も、いつかここに戻る日を夢見ていたことでしょう。
(※)現在、岡崎城のある住所(大字)は康生町(こうせいちょう)と言いますが、まさに「家『康』が『生』まれた地」を語源としています。
しかし、岡崎城は最初から彼らのものではありませんでした。
今回は『寛政重脩諸家譜』を中心に、家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)が岡崎城を奪取したエピソードを紹介したいと思います。
「分家のくせによい城を……生意気だ、とっとと寄越せ!」
岡崎城は室町時代の享徳元年(1452年)、三河国守護代の西郷稠頼(さいごう つぎより)・西郷頼嗣(よりつぐ)が築きました。
西郷頼嗣は地元の豪族・松平信光(のぶみつ。松平本家で家康の6代祖先)に敗れたため、娘を人質に差し出して岡崎城を譲ります。
頼嗣の娘の産んだ子が松平光重(みつしげ。紀伊守)、渥美郡大草(おおくさ)に住んでいたため、大草松平家と呼ばれました。
光重には松平親貞(ちかさだ。左馬允)という嫡男がおり、永正5年(1508年)に父が亡くなると家督を継いだものの、跡継ぎが生まれないまま亡くなってしまいます。
そこで親貞の弟である松平昌安(まさやす。信貞、弾正左衛門)が家督を継ぎますが、彼は西郷頼嗣(弾正左衛門)からの養子ではないかとする説もあるようです。
もしそうであるなら、名目上はともかく実質的には岡崎城を奪還されてしまったようなもの。
大永6年(1526年。大永4・1524年説も)、松平本家の清康は昌安に対して岡崎城の譲渡を要求しました。
岡崎は曩祖創業の地にして、西三河の咽喉なり。汝はわが家の支流にして其地をたもち、独立の志をさしはさむこと甚だいはれなし。速かにさけ渡すべし……
【意訳】岡崎は我が祖先の勝ち取った西三河の重要拠点である。そなたは分家でありながら岡崎を領有し、独立しようとは道理に合わない。ただちに明け渡すべし。
※『寛政重脩諸家譜』巻第二十六「清和源氏 義家流 松平大草」より
……要するに「分家のくせによい城を……生意気だ。とっとと寄越せ!」と言いたいようです。当然のごとく昌安はこれを拒否。
「よろしい、ならば戦さじゃ!」
交渉決裂、さっそく城攻めの支度を始める清康ですが、『三河物語』によれば大久保忠茂(おおくぼ ただしげ。七郎右衛門)が献策しています。
「真っ向から力攻めをなさっては被害も大きくなり申す。古来『将を射んとすれば先ず馬を射よ』と言いますが、ここは山中城から攻めるべきかと……」
清康はその策を採用して忠茂に山中城を奇襲させました。一夜にして山中城が陥落すると、岡崎城に孤立した昌安はついに降伏。
岡崎城を明け渡して娘の於波留(おはる。『朝野旧聞裒藁』による)を清康に嫁がせ(人質に出し)、自らは隠居したのでした。
終わりに・大草松平家その後
三河国岡崎山中両城をあはせ領し近境ををかしかすめしかば、大永六年清康君、昌安が許に使しておほせ下されしは、岡崎は嚢祖創業の地にして、西三河の咽喉なり。汝はわが家の支流にして其地をたもち、独立の志をさしはさむこと甚だいはれなし。速かにさけ渡すべしと、再びまでのたまへども、昌安敢てこれにしたがはず。清康君怒りたまひ、そのぎならば岡崎をふみつぶすべし。たゞし先山中城をせめとらば、岡崎孤立してをのづから帰服せんとて、或夜風雨のまぎれにしのびをいれて、たやすく山中城をせめおとしたまひければ、昌安つゐに罪を謝して清康君を婿になしたてまつり、岡崎をゆづりまいらす。
※『寛政重脩諸家譜』巻第二十六「清和源氏 義家流 松平大草」昌安 弾正左衛門より
しかし大草松平家はその後も何かと本家に反抗的で、昌安の子である松平七郎昌久(しちろうまさひさ。昌久は『干城録』による)は家康の代になって三河の一向一揆に加担。
その咎によって改易(所領を没収)されてしまいます。
永禄六年一向専修の門徒叛きまいらせし時、七郎も東條の吉良義昭にくみし、大草の手のものを率ゐて東條城にこもる。七年二月義昭没落して近江国にのがるゝに及び、七郎もまた逐電す。
※『寛政重脩諸家譜』巻第二十六「清和源氏 義家流 松平大草」某 七郎より
昌久の曾孫である松平康安(やすやす。善四郎)がゼロどころかマイナスの苦境を乗り越えて大活躍するのは、もう少し先のお話し。
話を戻して、家康の生涯を描いた令和5年(2023年)大河ドラマ「どうする家康」でも最重要ポイントの一つである岡崎城は、こうして松平本家の領するところとなったのでした。
劇中にも岡崎城がしばしば出て来ると思いますが、こんな歴史もあったことを知っておくと、ドラマ観賞に深みが出てくるかも知れません。
※参考文献:
- 中塚栄次郎『寛政重脩諸家譜 第一輯』國民圖書、1922年12月
- 平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、2002年4月
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