大河ドラマ「青天を衝け」もいよいよ最終回を前に、令和3年(2021年)は新型コロナウィルスに東京五輪に、実に色々あったと思いを馳せる方も多いことでしょう。
さて、先週(12月19日放送)は在米邦人移民に対する理解を求めて「日本人は敵ではない!」「No,war!」など熱弁を振るい、盟友・伊藤博文(いとう ひろぶみ)の死を乗り越えて日本へ帰国した主人公・渋沢栄一(しぶさわ えいいち)。
しかしその前には世界大戦の暗雲が立ち込め、従兄の渋沢喜作(きさく)や旧主・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を見送るも、まだ理想を諦めない栄一の奮起に物語のクライマックスを予感させます。
一方、放蕩三昧の挙げ句スキャンダルが発覚した嫡男・渋沢篤二(とくじ)を勘当するなど、天下公益に奔走して家庭を顧みなかった報いが影を落としました。
今回はこの篤二がどうなったのか、調べて紹介したいと思います。
父のコネで順風満帆、将来安泰のはずだったが……
渋沢篤二は明治5年(1872年)11月16日、栄一の次男として東京府で誕生。長男の渋沢市太郎(いちたろう)は既に夭折しており、嫡男として育てられました。
明治15年(1882年)に9歳で母(栄一の先妻・千代)を亡くして姉たちに育てられ、学習院を経て熊本第五高等中学校に入学しますが、明治25年(1892年)に病のためとして退学。父より血洗島(現:埼玉県深谷市)で蟄居謹慎を命じられます。
本当に病であれば療養を勧めるでしょうから、恐らくは不行跡(素行不良や学業不振など)が真の理由だったのでしょう。我が子ときちんと向き合わなかったがためにグレてしまった、というよくあるパターンだったのかも知れません。
東京に戻ってからは家庭教師をつけて英漢法経学を修め、明治28年(1895年)に伯爵家の橋本敦子(はしもと あつこ)と結婚、明治29年(1896年)に長男の渋沢敬三(けいぞう)が誕生しました。
その後、篤二は父のコネで明治30年(1897年)に栄一が直営する渋沢倉庫部部長となり、明治32年(1899年)に欧米諸国を視察後に第一銀行(現:みずほ銀行)監査役に就任。
明治39年(1906年)には東京毛織物株式会社の取締役、明治42年(1909年)に渋沢倉庫株式会社(渋沢倉庫部より改組)の初代取締役会長に就任しました。
この間、明治31年(1898年)に次男の渋沢信雄(のぶお)、明治34年(1901年)に三男の渋沢智雄(ともお)が誕生。傍目から見る分には、着実にキャリアを積み上げて順風満帆、後継ぎにも恵まれて将来安泰と思われましたが……。
廃嫡(勘当)された篤二、その後は
明治44年(1911年)、篤二が芸者・玉蝶(たまちょう)を囲っていたスキャンダルが発覚。明けて明治45年(1912年)1月、渋沢同族会の決定によって廃嫡が決定、大正2年(1913年)に正式な届出がなされました。
当時の「東京朝日新聞」では「渋沢男の廃嫡訴訟 篤二氏身體繊弱の故を以て(意:身体虚弱のため、渋沢男爵が篤二を廃嫡)」のタイトルで、明治40年(1907年)ごろから脳神経を病み、投薬の副作用か暴言や異常行動を見せたと報じています。
……ここまでが大河ドラマでの言及で、篤二はその9年後、大正11年(1922年)に渋沢倉庫の専務取締役に復帰し、監査役、取締役会長を歴任、それから終生経営に当たったそうです。
本当にそれまでの放蕩を反省して心機一転したのか、それとも廃嫡されたままでは世間体が悪いから、形だけ戻してもらったのかは分かりませんが、ともあれその後はこれといったトラブルは起こさなかったものと見られます。
そして昭和7年(1932年)、夏に健康を損なった篤二は前年に亡くなった父・栄一の後を追うようにして、10月6日に59歳の生涯に幕を閉じたのでした。
終わりに
「巨人栄一の重圧から逃げるため放蕩に走った悲劇の人物」
※佐野眞一、ジャーナリスト「生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」
※渋沢秀雄、篤二の異母弟
よく「偉大な父を持った息子は苦労する」などと言いますが、篤二はまさにそれを地で行った人生だったようです。
生前は放蕩三昧が目立ってしまった篤二でしたが、その趣味は明治維新後の徳川慶喜にも負けず劣らず多岐多彩(浄瑠璃や謡曲、写真や映画撮影、乗馬に絵画にハンティング等々)でした。
批判の一方でこうした才能が高く評価されたかも知れませんね。
※参考文献:
- 佐野眞一『渋沢家三代』文春新書、1998年11月
- 島田昌和『渋沢栄一 社会実業家の先駆者』岩波新書、2011年7月
- 東洋新報社 編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年12月
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