昔から「多勢に無勢」などと言う通り、基本的に戦いは数の多い方が有利です。
1人対2人だと個人の技量によって分からなそうですが、これが10人対20人そして100人対200人ともなると、両者の勝率差は絶望的に開いていくでしょう。
しかしそれはあくまでも基本の話し。みんな必死に戦った結果、どう転ぶかわからないのが戦さというもの。
今回はそんな人間の本質を見抜いて数々の勝利を収め、「海道一の弓取り」と呼ばれた徳川家康(とくがわ いえやす)の少年時代を紹介。
令和5・2022年大河ドラマ「どうする家康」の予習になるかも知れません。
石合戦を見物に
時は天文21年(1552年)5月5日。端午の節句に行われる石合戦(いしがっせん)を見物に行った竹千代(たけちよ。家康の幼名)。
召使いに肩車してもらって河原まで行くと、川の両岸に子供たちが陣取っています。ちなみに石合戦とは文字通り石を投げ合う遊びで、当然ながら当たり所によっては死傷者が出る危険なもの。
にも拘らず毎年端午の節句などに行われ、地方によって印地打(いんじうち)・小石打合(こいしうちあい)・向礫(むかいつぶて)・飄石(ずんばい、ずんべい)などとも呼ばれました。
そんなもの一刻も早く禁止すべきですが、かつて鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)が石合戦を禁じたところ、大飢饉が起きたため民衆の不満が高まってしまいます。
仕方なく泰時は石合戦の規制緩和に踏み切った過去があり、どうやら石合戦は神仏への奉納行事であり、犠牲者も生贄として受け入れられていたのでしょう(現代でも世界各地に似たようなお祭りがありますね)。
さて、話を本題に戻しますと。あっち側にはざっと300人以上が集まっているのに対して、こっち側には半分以下……いいところ100名ちょっとでしょうか。
「なぁ。そなたはどっちが勝つと思う?」
竹千代が訊くと、召使いは「そりゃあっち側でしょうね。数が違いすぎます」とのこと。
「そうか。わしはこっち側が勝つと思うな」
「へぇ。そりゃまた何で」
「見ておれば判る」
いよいよ石合戦が始まりました。川を挟んで両軍が石を投げつけあいます。さぁどうでしょうか。
最初は投げる石の数も多く、あっち側の方が優勢に思われたものの、次第に形勢は逆転。やがてこっち側の石があっち側を押し返します。
「よし、見込み通り!」
果たして数の少なかった側が勝利を収めました。
「若君、すごいですね。どうして数の少ない方が勝つと思ったんですか?」
召使いの質問に、竹千代は答えて言います。
「数が多いと統制がとれず、投げつける石の数こそ多くても狙いが散漫になって有効な攻撃ができない。その上、自分たちの優勢に驕って一人々々の攻撃も『誰かがやってくれるだろう』気が抜けてしまうものだ。一方で、少ない方は最初から劣勢を知っているので力を合わせるから、確実に攻撃して多勢の敵を切り崩せたのだ」
だから少ない方が勝てるだろう。そう予測した竹千代の慧眼に、召使いはたいそう感心したということです。
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終わりに
徳川竹千代君(~ぎみ)、幼にして今川氏に質(じち。人質)たるとき、端午の石戦(いしいくさ)を看んと奴(ど、やっこ)の肩に騎して往(ゆく)。
※『教導立志基』より(改行や句読点、ルビなどは筆者)
一隊ハ三百余人、一隊ハ之(これ)の半(なかば)に過ず、人争て多(おおき)ニ附く。
君奴に命じて少きを助しむ。奴其(その)異るを問。
君曰「多きハ心一ならず、少きハ慴(おそれ)て力を専(もっぱら)にす。依て其勝(そのかち)少ニあり」と。
果(はたし)て君の言の如し。時に君十才なりと。
以上、竹千代(少年家康)の慧眼を紹介しました。少なくても心一つに力を合わせれば、烏合の衆にも勝てる。10歳にしてそんな本質を見抜いていたとは凄いですね。
幾多の苦労と困難を乗り越えて天下を獲るに至った徳川家康。少年時代のキャスティングはまだ不明ですが、さぞかし利発な少年として描かれることでしょう。
改めてNHK大河ドラマ「どうする家康」、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 小林清親『教導立志基 卅一 徳川竹千代』東京都立図書館、1885年
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