豊臣秀長(羽柴小一郎)は兄・豊臣秀吉の天下獲りを献身的に支えたことで知られています。そんな秀長の活躍は、多くの家臣たちに支えられてのこそでした。
今回は秀長に仕えた疋田就長(ひきた なりなが)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
親子三代で秀長に仕える

疋田就長は疋田源左衛門(げんざえもん)の子として生まれましたが、その氏素性や前半生について、詳しいことはわかっていません。
元服して通称を疋田九兵衛(きゅうべえ/くへえ)と名乗り、後に疋田右近(うこん)の官途名を許されました。
また子供には疋田半吉(はんきち。生母不詳)がおり、共に活躍したそうです。
秀長に仕えた時期は不明ですが、天正16年(1588年)に黒田孝高(官兵衛)と大友義統(宗麟嫡男)の間に生じた境界争いを仲裁した記録がありました。
このことから、この時点で双方を納得させられる力量と実績、そして何より秀長からの信頼を備えていたことは確かでしょう。
もちろんこの案件を共同で担当していた福智長通(ふくち ながみち)・伊丹甚太夫(いたみ じんだゆう)が補佐した可能性もありますが、疋田就長が豊臣政権の九州統治に一定の影響力を及ぼしたのは間違いありません。
豊臣政権の外交・内政分野で活躍

翌天正17年(1589年)には豊前国(大分県北部)・豊後国(大分県)で実施されて検地を主導し、中国地方から毛利輝元が上洛した際には、親子三代(源左衛門・就長・半吉)で饗応役を担当しています。
また同年10月には豊後の大友義統に対して、秀吉の内意(内々の沙汰)を伝える使者を福智長通と共に務めました。
曰く「秀長でさえ妻子を人質として京都聚楽第に住まわせているのだから、大友家も同様にされたい」との旨です。
他にも領国内の検地を徹底し、国人衆に対する統制を強化するように求めました。
このように、諸大名を豊臣政権に服属させるため、硬軟あわせた交渉力を駆使したことでしょう。
ほかにも秀吉の大和・四国巡察や検地実施の予定などを綿密に記録しており、豊臣政権の運営に深く関与していたことがわかります。
また秀長所領内においても寺社勢力とのやりとりや交渉を担当しており、まさに秀長を支える縁の下の力持ちでした。
一体なぜ?三代揃って姿を消す

かくして秀長家臣として豊臣政権を下支えし続けた疋田就長ですが、この辺りを最後に記録から姿を消します。
父の源左衛門や子の半吉も同様に姿を見せなくなっており、単に隠居や病死ではなさそうです。
一族が揃って姿を消した理由はわかりません。主君の勘気をこうむって追放されたか、あるいは粛清されてしまったのでしょうか。
もしかしたら、その能力ゆえに豊臣政権の内実を知りすぎてしまったのかもしれません。
ともかく疋田一族は豊臣政権を去っていったのでした。果たして彼らは、天正18年(1590年)の天下一統を、生きて見届けることができたのでしょうか。
疋田就長・人物データ

- 生没:生没年不詳
- 出身:不詳
- 出自:不詳
- 両親:疋田源左衛門
- 子女:疋田半吉
- 主君:豊臣秀長
- 通称:九兵衛、右近
- 活動:天正16年(1588年)以前~天正17年(1589年)以降
- 活躍:外交、内政
今回は秀長に仕えて豊臣政権を支えた疋田就長の生涯を垣間見てきました。とても地味だけど、彼なくして豊臣政権の繁栄はなかったはずです。
天下一統を目前に姿を消してしまった謎多き一族の実像は、今後究明されるのでしょうか。
豊臣兄弟(秀吉・秀長)の下では個性豊かな多くの家臣が活躍しているので、ほかの武将たちについても、改めて紹介したいと思います。
どうぞ今後も、お付き合いください!
※参考文献:
- 新人物往来社 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年
- 臨川書店 編『紀伊続風土記 第一輯』臨川書店、1990年

