長沼宗政 ながぬま・むねまさ
清水伸(しみず・しん)下野の有力豪族である小山政光の息子で、結城朝光の兄。気性が荒く、しばしば暴言を吐く。
※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより
この人物紹介を見て「ついに宗政キター!」と歓喜した一方で「小山朝政(演:中村敦)の弟であることも言及したげて……」とも思ってしまいました。
ともあれ筆者は長沼宗政(ながぬま むねまさ)のファンなので、登場してくれたのは本当に嬉しかったです(割愛されちゃうんじゃないかとビクビクしていました)。
さて、今回は張り切ってこの長沼宗政を紹介。気性の荒さと暴言で知られた彼のエピソードをピックアップしていきましょう。
小山一族の豪傑として武勲を重ねる
その前に、まずは長沼宗政の生涯を駆け足でたどります。
長沼宗政は平安時代末期の応保2年(1162年)、北坂東は下野国(現:栃木県)の大豪族・小山政光(おやま まさみつ)の子として誕生しました。
成人してからの通称は五郎、兄弟には小山朝政・吉見朝信(よしみ とものぶ)・結城朝光(演:高橋侃)・久下重光(くげ しげみつ)・島田政照(しまだ まさてる)らがいます。
源頼朝(演:大泉洋)の挙兵に呼応して小山朝政と共に平家討伐に参戦、文治5年(1189年)の奥州征伐など数々の武勲を重ねました。
更には建仁3年(1203年)の比企討伐や元久2年(1205年)の畠山討伐、そして承久の乱(承久3・1221年)でも活躍しています。
寛喜2年(1230年)8月に嫡男の長沼時宗(ときむね。四郎左衛門尉)に家督を譲りました。
共に譲った所領は本領の下野国長沼荘(現:栃木県真岡市)や淡路守護(現:兵庫県淡路島)をはじめ、武蔵・陸奥・美濃・美作・備後など各地に点在。これまでの忠功が高く評価されてきたことが判ります。
そして仁治元年(1241年)11月19日、80歳で大往生を遂げたのでした。
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実朝の叱責に逆ギレ!日ごろの不満をぶちまける
ここまで長沼宗政の活躍ぶりについてたどってきましたが、実にクセの強い人物でして、鎌倉武士団においては荒言惡口之者(こうげんあっこうのもの)と敬遠されていたようです。
その二つ名?に恥じない暴言を発揮したのが建暦3年(1213年)9月26日。先立つこと9月19日、宗政は源実朝(演:柿澤勇人)から「畠山重慶(はたけやま ちょうけい。畠山重忠の遺児)に謀叛の容疑があるから、連行して参れ」と命じられました。
「待ってました!」と大張り切りの宗政は御所からまっすぐ日光山(現:二荒山神社)へ急行……したまではいいのですが、満面の笑みで抱えて帰ったのは何と首桶。とうぜん実朝は怒ります。
「あのな五郎……私は『生け捕ってこい』と命じたはずだ。なぜ殺した?そもそも畠山重慶は、父(重忠)を無実の罪で殺されているのだ。それを恨んで謀叛を企んでも不思議ではないではないか。親を想う子の思いを慰めて和解したかったのに、軽はずみなことをするんじゃない!」
ここで普通なら「あまりに激しく抵抗したので、殺さざるを得なかったのです」などと陳謝するところですが、そこは流石の暴言王。あろうことか鎌倉殿へ逆ギレをかましました。
その時のセリフがこちら。
【原文】
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月26日条
……於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申状。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罸者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無礼之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以哥鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜靑女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々……。
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【読み下し】
※面倒なら下の【意訳】まで読み飛ばしても大丈夫です。件の法師(畠山重慶)においては、反逆の企て(あること)その疑いなし。また生け捕りの条、掌内にありといえども、ただちにこれを具し参じせしめば、なかんづく諸々の女性(にょしょう)や比丘尼(びくに)らの申すさま、定めてこれをなだむる沙汰あるのよし。兼ねてもって推量の間(かん)、かくのごとく誅罰(ちゅうばつ)を加うればなり。向後においては誰輩(たがはい)の忠節をぬきんづべしや。これ将軍家おんべからざるなり。
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月26日条
およそ右大将家(頼朝)のおん時は厚く恩賞すべきの趣、すこぶる厳命ありといえども、宗政の諾し申さず。ただ望みは御引目(おんひきめ)を給わり、海道十五ヶ国において民間の無礼行わるを糺(ただ)すべしのよし啓(ひら)かせしむの間、武備をこれ重んじらるのゆえ。かたじけなくも一御引目を給わり、今に蓬屋(ほうおく)の重宝たり。
当代は歌や鞠をもって業となし、武芸もって廃る。女性をもって宗となし、勇士これなきが如し。また没収の地は勲功の族(ともがら)にあてられず、多くもって青女らへ賜う。いわゆる榛谷四郎重朝(はんがや しろうしげとも。重忠の従弟)が遺跡(ゆいせき。遺領)は五條局(ごじょうのつぼね。女性名)へ給わり、中山四郎重政(なかやま しろうしげまさ。重忠の息子、討死)が跡は下総局(しもうさのつぼね。千葉介常胤の孫娘)へ賜ると云々……。
【意訳】
※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)9月26日条
あの坊主の謀叛は明確だ。生け捕るのは造作もなかったが、どうせ連れてくれば女どもや尼御台(政子)らが「可哀想だから許してあげて」と言えば無罪放免なんだろう?そう思ったらバカバカしくなってブッ殺したのさ。そもそも「生け捕れ」と簡単におっしゃるがねぇ。こっちだってリスクを冒して任務に当たってるんだ。それを簡単に解放しちまうんじゃ、誰が真面目にやるかってんだよ。
頼朝さまの時代は我らの武勲に手厚く恩賞で報いるよう、よくよくお命じ下さったが、この宗政は言ったのさ。「引目の鏑矢を下されば、東海道十五ヶ国の連中を従えてご覧に入れましょう」とな。果たして任務を達成したご褒美に頂戴した引目の鏑矢は、今でも我が家の家宝として大事にしているんだ。
それに引き換え、アンタは何だい。和歌や蹴鞠にご執心で、(武士の本分たる)武芸なんかそっちのけ。女どもばっかり依怙贔屓して、武士なんかもう要らないとでも言いたいのかね?いざ有事には、その女どもがアンタを護るのか?
敵から奪った土地だって、じっさい戦った者には与えられず、お気に入りの女どもに与えてばかり。畠山重忠の乱で滅びた榛谷重朝の所領は五条局にやっちまった。同じく中山重政の所領は、これまたお気に入りの下総局にくれやがってよぉ……!
その後もまぁ悪口雑言のオンパレード。あまりに口汚く罵倒したもので、『吾妻鏡』にも書けなかったこと(此外過言不可勝計)が記されています。
この暴言によって宗政は謹慎を命じられ、およそ半月後の閏9月16日、兄・朝政のとりなしによって何とか許されたということです。
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終わりに
とまぁこんな具合に暴言の激しい宗政でしたが、彼が何も言えなかったこともありました。
時は正治2年(1200年)2月6日。御家人たちが雑談をしていた時のこと。
「梶原景時(演:中村獅童。同年1月に滅亡)のヤツ、日ごろあんなに偉そうだったのに、口ほどでもなかったなぁ……」
すると兄の朝政が言いました。
「口ほどでもと言えば、おい五郎(宗政)。そなたは以前、梶原を弾劾する書状に署名しなかったよな。アイツが怖かったんだろ?いつも『小山一族の武功はすべて俺の働きによるものだ』なんて大口を叩いていたくせに。これからは偉そうなクチを利くんじゃないぞ!」
日ごろの荒言悪口(こうげんあっこう)はどこへやら、さすがの宗政も反論できなかった……と言います。
しかし、もしかしたら弾劾状の提出をためらった大江広元(演:栗原英雄)のように景時の才能が失われることを惜しみ、また友として口を噤んでいたのかも知れません。
頼朝の死後、御家人たちも武勇(身命を賭した奉公)より典雅な教養(口先での処世術)が重んじられていきますが、挙兵以来の古参たちは生きづらさを感じていたことでしょう。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において、長沼宗政はそんな御家人たちの代表として振る舞うものと予想。清水伸さんの熱演に期待しています!
※参考文献:
- 佐藤和彦ら編『吾妻鏡事典』東京堂出版、2007年8月
- 関幸彦ら編『吾妻鏡必携』吉川弘文館、2008年9月
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