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【鎌倉殿の13人】坂東武者の鑑・畠山重忠(中川大志)最後の1日を『吾妻鏡』から読み解く【後編】

鎌倉時代
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前編のあらすじ

武蔵国をめぐり対立する畠山重忠(演:中川大志)を討つため、北条時政(演:坂東彌十郎)の命を受けて坂東じゅうから大軍を動員した北条義時(演:小栗旬)。

既に嫡男の畠山重保(演:杉田雷麟)を騙し討ちにされ、果たして重忠に活路は見いだせるのでしょうか。

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敵の大軍、何するものぞ……逃げも隠れもしなかった重忠

午尅各於武藏國二俣河。相逢于重忠。々々去十九日出小衾郡菅屋舘。今着此澤也。折節舎弟長野三郎重淸在信濃國。同弟六郎重宗在奥州。然間相從之輩。二男小次郎重秀。郎從本田次郎近常。榛澤六郎成淸已下百三十四騎。陣于鶴峯之麓。而重保今朝蒙誅之上。軍兵又襲來之由。於此所聞之。近常。成淸等云。如聞者。討手不知幾千万騎。吾衆更難敵件威勢。早退歸于本所。相待討手。可遂合戰云々。重忠云。其儀不可然。忘家忘親者。將軍本意也。随而重保被誅之後。不能顧本所。去正治之比。景時辞一宮舘。於途中伏誅。似惜暫時之命。且又兼似有陰謀企。可耻賢察歟。尤可存後車之誡云々。

さて、重忠らが討伐軍と遭遇したのは正午ごろ。場所は武蔵国二俣川、現在の神奈川県横浜市旭区に当たります。6月19日に小衾郡菅屋館(現:埼玉県深谷市)を発ち、鎌倉へ向かう道中でした。

「申し上げます!我らに討手が迫っております!」

この時、重忠が率いていたのは次男の畠山重秀(はたけやま しげひで。小次郎)、郎従の本田近常(ほんだ ちかつね。次郎)や榛沢成清(はんざわ なりきよ。六郎)ら134騎。対する義時らの大軍は何千とも何万とも……とうてい勝ち目はありません。

135騎 対 数千~数万。とても勝ち目はないが、どうする重忠。月岡芳年筆

「ここはひとまず菅屋館へ引き返して籠城し、ご舎弟がたの援軍を待ちましょう!」

そのころ、重忠の舎弟である長野重清(ながの しげきよ。三郎)は信濃国へ、畠山重宗(しげむね。六郎)は奥州へそれぞれ大軍を派遣していました。

彼らの軍勢と合流できれば、地の利を活かして時間を稼ぎ、追討軍に調略を仕掛けて切り崩しも図れるでしょう(そもそも追討軍は同族・同郷の武士が多く、合わせて時政の言いがかりによる無理筋を衝くことで、講和に持ち込める見通しも立ちます)。

「次郎と六郎の申す通り……父上、早く引き返しましょうぞ!」

みんなが撤退・籠城に同意する中、重忠は彼らを諭して言いました。

「その儀は然るべからず。家を忘れ親を忘るは将軍の本意なり。随いて重保が誅さるの後、本所を顧みるに能わず。去んぬる正治のころ、景時が一宮館を辞して途中において誅に伏す。暫時の命を惜しむに似て、且つまた兼ねて陰謀の企みあるに似たり。賢察を恥ずべしか。もっとも後車の誡を存ずべき」と云々。

【意訳】それはダメだ。武士たる者、家や肉親を顧みるべきではない。重忠が討たれた以上、もはや故郷などなくなった。かつて正治2年(1200年)、梶原景時(演:中村獅童)が上洛の途上で討たれたが、一時の命を惜しんだために謀叛の疑いをかけられてしまったのだ。むしろ謀叛を疑われるような日ごろの振る舞いをこそ恥じるべきである。後世の人々が二の轍を踏まぬよう、教訓(後車の戒め)として欲しいものだ……。

かつてその梶原景時によって謀反の疑いをかけられた時は、むしろ堂々と「日ごろの振る舞いこそが忠義の証しであり、それは誰もが認めるところだから起請文(誓約書)など必要ない」と啖呵を切った重忠。

しかし今回は御家人たちが大挙して自分を謀叛人と見なしている(少なくとも時政らに反論・弁護せず追討軍に加勢している)。これは永年の忠義に驕ってしまった自分の落ち度……たとえ言いがかりであろうと罪を受け入れてしまう重忠の潔さ。

この心映えこそ、重忠をして「鎌倉武士・坂東武者の鑑」と称賛せしめた魅力と言えますが、その美学ゆえに破滅を選ぶよりなかったのでした。

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数時間に及ぶ激闘の果て、重忠主従の壮絶な最期

爰襲來軍兵等。各懸意於先陣。欲貽譽於後代。其中。安達藤九郎右衛門尉景盛引卒野田与一。加世次郎。飽間太郎。鶴見平次。玉村太郎。与藤次等畢。主從七騎進先登。取弓挾鏑。重忠見之。此金吾者。弓馬放遊舊友也。抜万人赴一陣。何不感之哉。重秀對于彼。可輕命之由加下知。仍挑戰及數反。加治次郎宗季已下多以爲重忠被誅。凡弓箭之戰。刀劔之諍。雖移尅。無其勝負之處。及申斜。愛甲三郎季隆之所發箭中重忠〔年四十二〕之身。季隆即取彼首。献相州之陣。而之後。小次郎重秀〔年廿三。母右衛門尉遠元女〕并郎從等自殺之間。縡屬無爲。

さて、そんな重忠たちを完全包囲した追討軍は一気呵成に襲いかかります。いくら少数といえども、何せ相手は畠山。ナメてかかれば返り討ちは免れません。

中でも真っ先駆けたのは安達景盛野田与一(のだ よいち)はじめ加世次郎(かせ じろう)・飽間太郎(あくま たろう)・鶴見平次(つるみ へいじ)・玉村太郎(たまむら たろう)・与藤次(よとうじ)ら主従7騎が一丸となって突っ込んできました。

「あの金吾(※)は昔から弓馬の親友なのだ。誰よりも早くこの畠山を討とう=他の誰でもない、自分の手でとどめを刺してやりたいという熱い友情に感動してしまうではないか!」

(※)金吾(きんご)とは衛門府の唐名(大陸での呼び方)で、ここでは右衛門尉であった景盛を指しています。

「よぅし。その心意気に応えるために、者ども、全力でお相手せぇ!」

「「「応っ!」」」

さぁ合戦が始まりました。重忠らは今日が最後だから悔いのないよう死に物狂いで闘います。あまりに激しい抵抗のため、追討軍には加治次郎宗季(かじ じろうむねすえ)の討死はじめ多くの死傷者が続出します。

およそ矢を射尽くしてしまった後は太刀を奮っての白兵戦。圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、戦闘は数時間にも及びました。

ボロボロになるまで戦い抜いた重忠主従。月岡芳年「芳年武者无類 畠山庄司重忠」

これは重忠らの精強さはもちろんですが、追討軍の士気が上がらなかったことも一因と考えられます。
だって勝利が確実な戦いで死ぬのはバカバカしいし、そもそも重忠を討つ大義名分が嘘っぱちだと分かっているし、何よりかつての仲間を裏切る後ろめたさもあったのでしょう。

とは言うものの、ひとたび戦端を開いてしまった以上はやり遂げねばなりません。何となくみんな「参加はしているけど、自分が畠山殿を討ち取るのはやっぱり気が引けるな……」と思い始め、ダラダラと戦っている内に、すっかり夕方・申の斜(さるのななめ。およそ午後5:00~5:30過ぎ)。

弓の名手として知られる愛甲三郎季隆(あいこう さぶろうすえたか)の射放った矢が重忠に命中。きっと「どうせ誰かがやらねばならぬなら」と覚悟を決めたのでしょう。

「謀叛人・畠山次郎重忠。この愛甲三郎が討ち取ったり!」

季隆はすかさず重忠の首を掻き切り、首級を義時の陣地へ持って行きます。

「永らくのお待たせでしたが、ご注文の首級、ただ今お持ちいたしました」

「……確かに受け取った」

重忠が討たれた以上、もはやいかなる抗戦も無意味……まだ戦い続けていた重秀ら主従は、ことごとく自刃して果てたということです。

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終わりに

快晴。寅尅。鎌倉中驚遽。軍兵竸走于由比濱之邊。可被誅謀叛之輩云々。依之畠山六郎重保。具郎從三人向其所之間。三浦平六兵衛尉義村奉仰。以佐久滿太郎等。相圍重保之處。雖諍雌雄。不能破多勢。主從共被誅云々。又畠山次郎重忠參上之由。風聞之間。於路次可誅之由。有其沙汰。相州已下被進發。軍兵悉以從之。仍少祗候于御所中之輩。于時問注所入道善信。相談于廣元朝臣云。朱雀院御時。將門起於東國。雖隔數日之行程。於洛陽猶有如固關之搆。上東上西兩門〔元土門也〕始被建扉。矧重忠已莅來近所歟。盍廻用意哉云々。依之遠州候御前給。召上四百人之壯士。被固御所之四面。次軍兵等進發。大手大將軍相州也。先陣葛西兵衛尉淸重。後陣堺平次兵衛尉常秀。大須賀四郎胤信。國分五郎胤通。相馬五郎義胤。東平太重胤也。其外。足利三郎義氏。小山左衛門尉朝政。三浦兵衛尉義村。同九郎胤義。長沼五郎宗政。結城七郎朝光。宇都宮弥三郎頼綱。筑後左衛門尉知重。安達藤九郎右衛門尉景盛。中條藤右衛門尉家長。同苅田平右衛門尉義季。狩野介入道。宇佐美右衛門尉祐茂。波多野小次郎忠綱。松田次郎有經。土屋弥三郎宗光。河越次郎重時。同三郎重員。江戸太郎忠重。澁河武者所。小野寺太郎秀通。下河邊庄司行平。薗田七郎。并大井。品河。春日部。潮田。鹿嶋。小栗。行方之輩。兒玉。横山。金子。村山黨者共。皆揚鞭。關戸大將軍式部丞時房。和田左衛門尉義盛也。前後軍兵。如雲霞兮。列山滿野。午尅各於武藏國二俣河。相逢于重忠。々々去十九日出小衾郡菅屋舘。今着此澤也。折節舎弟長野三郎重淸在信濃國。同弟六郎重宗在奥州。然間相從之輩。二男小次郎重秀。郎從本田次郎近常。榛澤六郎成淸已下百三十四騎。陣于鶴峯之麓。而重保今朝蒙誅之上。軍兵又襲來之由。於此所聞之。近常。成淸等云。如聞者。討手不知幾千万騎。吾衆更難敵件威勢。早退歸于本所。相待討手。可遂合戰云々。重忠云。其儀不可然。忘家忘親者。將軍本意也。随而重保被誅之後。不能顧本所。去正治之比。景時辞一宮舘。於途中伏誅。似惜暫時之命。且又兼似有陰謀企。可耻賢察歟。尤可存後車之誡云々。爰襲來軍兵等。各懸意於先陣。欲貽譽於後代。其中。安達藤九郎右衛門尉景盛引卒野田与一。加世次郎。飽間太郎。鶴見平次。玉村太郎。与藤次等畢。主從七騎進先登。取弓挾鏑。重忠見之。此金吾者。弓馬放遊舊友也。抜万人赴一陣。何不感之哉。重秀對于彼。可輕命之由加下知。仍挑戰及數反。加治次郎宗季已下多以爲重忠被誅。凡弓箭之戰。刀劔之諍。雖移尅。無其勝負之處。及申斜。愛甲三郎季隆之所發箭中重忠〔年四十二〕之身。季隆即取彼首。献相州之陣。而之後。小次郎重秀〔年廿三。母右衛門尉遠元女〕并郎從等自殺之間。縡屬無爲。今日未尅。相州室〔伊賀守朝光女〕男子平産〔左京兆是也〕。

※『吾妻鏡』元久2年(1205年)6月22日条(全文)

かくして討ち取られた畠山重忠。これだけ無防備に討たれてしまったことにより、謀叛の疑い≒準備や計画などなかったのは火を見るよりも明らかでしょう。

戦を避けるため、語り合う重忠と義時。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」公式サイトより。

ちなみに重忠が討死する少し前、未の刻(午後2:00ごろ)に義時の正室・伊賀の方(のえ。演:菊池凛子)が男児を出産しました。

これが後の北条政村(ほうじょう まさむら)。重忠と入れ替わりで世に出てきたのは、何か浅からぬ因縁を感じられてなりません。

果たしてNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではこの劇的な場面をどのように描き、中川大志さんがどのような最期を好演してくれるのか、腹を括って見届けたいところです。

【完】

※参考文献:

  • 清水亮『中世武士 畠山重忠 秩父平氏の嫡流』吉川弘文館、2018年10月
  • 貫達人『人物叢書 畠山重忠』吉川弘文館、1987年3月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月

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